Oral History05 どんな責任も負かうら放送を最優先

兵庫エフエムラジオ放送株式会社代表取締役社長(当時)小榑雅章氏 
聴取日:2002年7月24日

「助けてくれ」と言われた 
私はマンションの7階にいました。「ガーン」ときたわけです。会社は24時間放送ですから泊まりがいるので電話をかけて「どうだ?」と言ったら、「放送はしているが、怖い」と言うんです。「すぐ行くから」と言って、私は歩いて外に出ましたが、まだ真っ暗でした。 

すると3軒目の家がつぶれていました。ちょっと行ったところで「助けてくれ」と言われました。ただ、「自分の力と計って、絶対にこの梁は持ち上がらない」ということと「放送という使命のために、自分は絶対行かなければならない」ということを思いながら、知らぬ顔をして通り過ぎて行ったわけです。今でも嫌な思い出です。

情報を盗もう 
放送局の使命としては情報を何とかして流さなければならないことでしたが、情報がどこからも何もこないという段階で、「盗もう」私はと言ったのです。自家発電がありますから大阪のテレビ放送が入ります。テレビをニュース源にすると「何とかによれば」と断って流さなくてはならないわけですが、「何でもいいから流していけ」と指示をしました。 

どうやって人間を確保するかというときに、緊急用の電話が鳴って、「こられません」とある社員が言った。後になって、総務の人間がきていない社員に「大丈夫か」と電話で聞いていたんです。普通なら美談ですね。でも、私は怒りました。緊急用の電話の割り当てはうちの会社に1台しかないんですよ。そこへいろいろな情報がくるわけで、社員の安否を尋ねているのではプライオリティが違うじゃないかと。そのとき、私は「鬼」だと言われました。かなり喧嘩になりました。 

放送会社が情報を流すべき義務があって、それがいかに重要か分かっているわけですが、自分の家がつぶれていると技術部長がやってこない。何をおいてもこないといけないのに翌日になって会社に来たのです。私は放送の使命を共有するという基盤がない限り組織というのは保たない、と思いました。

非常電源がなくなる 
「非常電源は、社長、8時間しか持ちません」と、朝10時くらいに言われました。(午前)6時に切り替わってるので、午後2時か3時には非常電源がなくなる。油を買いに行こうにも何もないわけです。一番近いダイエーに歩いて行ったんです。震災のときにいったい何が必要だったかというと、私にとって一番重要なのはハイテクの機器とかでなく(非常電源の燃料を運搬する)ポリタンクだったんですよ。ポリタンク3つしかなかったので(私が)何回も往復したわけです。

そうやって燃料を確保しましたが、3日目になったときに「連続燃焼をこれだけしても大丈夫という設計はされてません。ボイラーが爆発するので、なんとか配電をお願いできないか頼んでください」と言われました。関電の神戸支店長が友人でしたので、そこに行き、わけを話すと1時間後にはきてくれました。

社員に「出てこい!」と言えたか 
もっと大事なことは引っ越さないで大丈夫なのかということでした。夜中になると余震もあるし、なくても「ギーッ」と音が出て実際に揺れる。3日目になると少しは余裕が出てきましたが、神戸市から退去命令が出て、怖さもあった時ですので本気で引っ越すことを考えましたね。しかし、できないのですよ。 

社長にしかできない判断は、この建物をどうするとか引っ越しはしないとか、燃料をどうするか、関電に掛け合うとかいう根本的な存立の問題とか、あるいは初めに情報をどうやって確保するかというようなことはありますが、後からのものは社員に任せました。基本的には陣頭指揮でやりました。 

いくつかの決断をしましたが、社員に「出てこい!」と言えたか。やはり言えなかった経営者が多いと思いますよ。しかし、情報として(市民からの)FAXがどんどん入ってきたりすると、この神戸でたった1つの放送局だと思いましたから、そういう中で、どんな責任も負うからこれ(放送)を最優先にしようと思いました。