「親父、おばあちゃんがすごくいちゃもんをつけてきて困るんだけど・・・」

その一本の電話は、長野の実家に寝泊まりしていた息子からのものでした。何気ない不満のように聞こえましたが、後になって思えば、これが母の認知症を知る最初のきっかけだったのです。

私は大手メーカーで10年間、危機管理の最前線で働いてきた「リスク管理のプロ」のはずでした。企業の想定外の事態に備え、BCPを構築し、様々なリスクシナリオを検討してきた私。しかし、両親の介護という、最も身近で確実に訪れるリスクに対して、私はほとんど何の準備もしていませんでした。

息子からの連絡を受け、地元の神経科病院を訪れたところ、医師から告げられたのは「認知症」という診断でした。当時の私は、これを風邪や怪我のような一過性の病気と同様に考え、「早期治療をすれば治るもの」と勘違いしていました。この認識の誤りが、その後の対応の遅れにつながったのです。

「まだ元気だから」「もう少し先の話」「その時になったら考えよう」

多くのサラリーマンが抱くこの思い込みが、最大の落とし穴です。危機管理の世界では「準備していなかった危機」が最も深刻な被害をもたらします。親の介護も例外ではありません。

この連載では、危機管理のプロである私自身が、東京と長野の間で繰り広げた5年間の遠距離介護の実体験をもとに、「サラリーマンのための親の介護リスク対策」をお伝えします。たとえあなたの両親が今、元気に暮らしていたとしても、この記事を読み終えた後には、明日からできる「備え」があることに気づくはずです。

1.1 パンデミックがもたらした静かな認知症の進行

振り返れば、母の変化は2020年のCOVID-19パンデミックから始まっていました。外出自粛要請と東京・長野間の移動制限により、一人暮らしだった母は突然、社会との接点を失いました。当時は「感染予防のため」という大義名分があり、その影の部分に気づくことができなかったのです。

多くのサラリーマンにとって、2020年は働き方の大きな変革期でした。テレワークへの移行、業務のデジタル化など、自分自身の環境変化に対応することで精一杯だったはずです。私もその一人でした。

しかし今思えば、この時期こそ親の変化に最も注意を払うべき時だったのです。特に母のような一人暮らしの高齢者にとって、社会的交流の突然の喪失は、認知機能に重大な影響を与えていました。

コロナ禍が高齢者にもたらした影響 < 見落としがちなリスク>
地域の活動や老人会の中止 社会的孤立の深刻化
買い物など外出機会の減少 身体機能の低下
対面コミュニケーション不足 認知機能への影響
生活リズムの乱れ 心身の不調へのつながり

 

これらの要素が複合的に作用し、母の認知症の「発症前期」を静かに進行させていたのです。

1.2 発見から診断まで - 後手に回った対応

2022年、地元の神経科病院での診断を受け、地域の福祉課の支援を受けながら「要介護1」の認定を受けることになりました。このときの私は「治療すれば回復する」と考えていましたが、認知症は進行性の疾患であり、完治するものではないことを理解するまでに時間がかかりました。

さらに当時の私は、「要支援1〜要支援2」「要介護1〜要介護5」という介護保険制度の区分や、それぞれの段階で受けられるサービスの違いについて全く知識がありませんでした。無知ゆえに、介護の計画や方針を全て介護士さんに丸投げしていたのです。今思えば、自分が「介護する側」の一員であることを自覚せず、第三者的な立場でいたことが大きな問題でした。

初期の介護体制はこうでした。

曜日 介護サービス内容
月・水・金 地域の小規模多機能型居宅介護施設に通所
火・木 神経科病院に併設されている認知症デイケアに通所
土曜日 小規模多機能型居宅介護の訪問サービス(10時と16時の2回)
日曜日 サポートなし ← ここに落とし穴がありました

 

この時点で、母はアルツハイマー型認知症の「初期」段階でした。病院から提示された臨床経過表によれば、この段階は「記憶障害・失見当識(時間)」が主な症状とされています。

私は当時、日曜日をサポートのない日にすることで「母に一人の時間を確保してあげている」と考えていました。これが後々、夜間の徘徊行動につながっていたとは、当時の私は全く想像もしていませんでした。今思えば、介護士の方々が母の安全確保を最優先に考えてくださっていたのに対し、私たち家族はその意図を十分理解しておらず、心底からの感謝の気持ちが欠けていたのです。

1.3 感染症が加速させた認知機能の低下と遠隔見守りの苦悩

2023年、母の状態が変化し「要介護2」に認定が変更されました。そして同年10月には、母はCOVID-19に感染。続いて同年11月にはインフルエンザB型に感染しました。この二度の感染症は、母の認知機能に著しい影響を与えました。

この頃、介護士さんから衝撃的な報告を受けました。「お母さんがガスをつけっぱなしで鍋を焦がし、煙が部屋に充満していました」。最初は半信半疑でした。母がそこまで認知機能が低下しているとは思えなかったのです。しかし、状況確認のために設置していたアレクサによる部屋の監視では不十分と判断し、急遽、火の元を遠隔監視できるカメラを設置することにしました。

イメージ(Adobe Stock)

そのカメラを通じて目にしたのは、介護士さんの報告通りの現実でした。食事の準備ができなくなっている母、ガスコンロをつけたまま席を外し、鍋から煙が上がる様子・・・。火災のリスクが目の前に迫る危機として現れたのです。

急いでの対応が必要でした。

・ガスコンロの使用を禁止し、電子レンジで温められる簡単な食事に切り替え
・リビングだけでなく玄関まで生活環境全体を監視できるよう、カメラを1台から4台に増設
・リビングと玄関にアレクサを設置し、電話だけでなく声掛けができる環境を整備

さらに安全面を強化するため、2023年10月以降はセキュリティ会社によるホームセキュリティシステムも導入しました。玄関とリビング掃き出し窓の開錠を監視し、徘徊時にはスタッフが駆けつける体制です。しかし、この対策も新たな問題を生み出していきました。母が夜中に玄関から外に出てしまうたびに、セキュリティスタッフが駆けつけ、同時に私にも電話が入ります。私は東京の自宅から監視カメラで母の居場所を確認し、スタッフと情報共有するという緊張感のある日々が始まりました。さらに深刻だったのは、母が混乱してセキュリティシステムの緊急通報ボタンを押してしまうケースが頻発するようになったことです。そのたびに警察が緊急配備され、近隣住民を巻き込む騒ぎになってしまいました。

遠距離介護の難しさを痛感しました。離れた場所からの安全確保と、被介護者の尊厳やプライバシーのバランスをどう取るべきか。テクノロジーやセキュリティシステムは安全を確保する一方で、新たな混乱と課題を生み出していました。

母に現れた症状の変化 影響の内容 対応した技術的解決策 生じた新たな問題
判断力(特に空間認識)の低下 自宅内での迷子、物の置き場所がわからなくなる 監視カメラの設置 プライバシーの侵害感
料理の手順を忘れる ガスをつけっぱなし、鍋の焦げ付き ガス使用禁止、レンジ食に切替え 食の楽しみの喪失
夜間の徘徊行動 玄関から外出しようとする セキュリティ会社による開錠監視 頻繁な緊急出動による騒ぎ
システム操作の混乱 緊急通報ボタンを誤って押す ホームコントローラーの設置 警察出動、近隣トラブル
言語能力の低下(失語の進行) 会話の内容を忘れる アレクサによる声掛け 機械音声への違和感
常生活の遂行能力の低下 身の回りの整理ができない 訪問サービスの強化 介護コストの増加

 

これらの症状の変化は、アルツハイマー型認知症の進行速度を速めていました。当初の臨床経過表では、初期から中期への移行に通常3〜5年程度かかるとされていますが、母の場合は感染症の影響もあり、わずか1年あまりで中期の症状が現れ始めました。

特に深刻だったのは、「部屋にいる無数の妄想家族や幽霊に食事を与えてしまい、自分の食事をとれなくなる」という症状でした。認知症の中期に見られる「失行・失認・動きの障害」に加えて、「妄想・幻覚・徘徊」といった精神症状も顕著になっていたのです。