2022年6月18日に私が事務局長を務める子ども安全管理士協会Yokohama主催のイベント、保育の防災オンラインセミナー「未就学児の防災について考える〜東日本大震災からの教訓〜」を開催いたしました。セミナー参加者の多くが現役保育士で、全国から約50人が参加しました。

海抜0m、漁港からわずか260mの位置にある閖上保育所では、東日本大震災発生の時刻54人の子どもたちが午睡中でした。大きく長い揺れに続く地盤沈下や巨大津波による被害から子どもたち全員を守り抜いた保育士はその時どう行動したのか。当時、閖上保育所で所長をされていた佐竹悦子先生に基調講演でお話しいただきました。

本稿では、講演で学んだ貴重な内容の一部を皆様にも共有したいと思います。

宮城県名取市・閖上地区は海から町まで高低差なくつながっている(写真AC)

すべては大切な命を守るために 

「防災をなぜ勉強するか。それはいのちを守るためです」

平成23年3月11日14時46分地震発生。発災から10分後には避難を開始、近くに高い建物がないために2キロ先の小学校に避難しました。その時、佐竹先生が職員に告げた言葉は3つ「逃げます」「車を持ってきてください」「小学校で会いましょう」と。子ども54人を真っ先に職員の車に乗せて2キロ先の小学校に向けて避難しました。冷静ではない状態のため、災害用に用意していた防災グッズを持ち出さずに避難しました。保育所の玄関にはお迎えにきた保護者のために避難先を記した紙を貼りました。

15時20分、避難先の閖上小学校東昇降口で園児、職員全員が避難していることを確認後、小学校の屋上へ上がります。

15時52分に津波到達。雪が降ってきたために屋上から3階の教室に移動。子どもたちは、パジャマにジャンパー1枚を羽織っただけで、寒さと恐怖で耐えられない状況でした。

14時10分、プロパンガスが瓦礫と接触して爆発。

たった1時間余りの間に地震、津波、寒さ、火災という4つの災害を体験しながら、心の中で「命は守れないだろう」と何度も思いました。にこやかにしている子どもたちの顔をみて「ごめんね、守れなかったらごめんね」と何度もあやまりました。保育士たちは学校(避難所)の椅子やテーブルは子どもたちの行動を妨げると判断して、何もない視聴覚室で円座になって、歌、手遊び、お絵かきなど「平常保育」を行いました。あの恐怖の中で、保育職員はよくやったな、と思います。あの時は子どもたちに安心して過ごしてほしいという思いだけでした。避難所はライフラインがすぐに停止し、名取市からの情報が入るはずの機械も壊れ、情報が遮断されました。

園児を迎えに来た保護者がいる一方、引き渡しができない子どもから「先生ママは」と聞かれました。子どもを不安にしないために「必ず来るよ」と答えました。夜になると、泣く小学生、言葉がでない中学生がいる状況で、子どもたちは1人も泣かずに入眠してくれました。

夜が明けました。あんなにきれいな朝日を見たのはかつてありません。こんなに大変なことが起こっても「朝は来るんだ」と思いました。

災害発生から4日後、最後の子どもを保護者に引き渡しました。