江戸時代以降は冷害が脅威

近世(江戸初期以降)になると、農業土木技術が進んで、用排水堀や灌漑施設が多く開発され、平坦な土地には広々とした田地が広がり、また湖沼や海岸湿地などを干拓して新田開発を進めた結果、旱害は余り深刻な影響をもたらすものではなくなった。だが稲の実る北限まで田を耕して、米作をすることになったので、例年より気象が冷涼すぎると、米の収穫はがた落ちとなる。近世以降は東北地方が米作の中心地(穀倉地帯)のひとつとなるが、冷害がこの地方では繰り返し起こり農民を苦しめた。

冷害による不作・凶作、それのもたらす飢饉は防ぎようがなく、江戸中期以降の宝暦・天明・天保の大飢饉はこれらが要因となって起こった。昭和時代に入っても、6年(1931)・9年(1934)・16年(1941)などの冷害が農民らを飢餓に追い込んだ。

西日本に比べて、遅れて米どころとなった関東や東北地方では、冷害が深刻な問題となって農民に苦労を強いたのである。たとえば常陸国(現茨城県)では、夏になっても長雨が降って涼しい年には、米の結実が十分ではなく、反対に日照りが続いて暑い年には、穀物がよく稔って豊作となる(「日照りに不作なし」と言われた)。逆に雨が多くて涼しい夏は不作の年と決まっていた。

たとえば、昭和51年(1976)の夏は冷夏で、特に岩手県などの米作は相当な不作となったが、逆に53年(1978)の夏は雨が極端に少なくて記録的な暑さが続き、秋の米作も記録的な豊作となった。近年日本での米の余剰が著しく増大したため、政府はかえって四苦八苦という境地に追い込まれた。