稲のできは日本の運命をずっと左右してきた

古くは怖かった干ばつ

「飽食時代」といわれる今日、「大旱魃(だいかんばつ)」「飢饉(ききん)」「飢餓」といったおぞましい言葉は「死語」になったのであろうか? 確かに「災害列島」日本の現状だけに限ってみれば「死語」になったように見けられる。しかしながら、戦前はもとより、戦後の高度経済成長期以降でも「飢饉」「食糧不足」は日本国民を襲ったのである。

そこで日本の「飢饉の歴史」を、改めてひもといてみよう。「日本史小百科 災害」(近藤出版社)や災害関連の専門図書を参考にする。

古く「日本書紀」(奈良朝)欽明天皇28年(6世紀半ば)の条(「事」を意味する)に「郡国大水、飢えて或は人相食(あいは)む」とあり(人肉で飢えをしのいだ!)、天武天皇5年(676)5月条に「下野(しもつけ)国(現栃木県)所部の百姓、凶年に遭(あ)ひ飢ゆ。子を売らんとす。しかるに朝(行政府)許さず」(人身売買・人減らしが横行)という記述をはじめとして、日本史上の飢饉については、昭和時代までに大小およそ500回もの記録がある、とされる。飢饉の直接の原因としては、旱害・冷害と風水害・震災の自然災害があるが、戦乱・疫病・虫害も見逃すことが出来ない。

現在では旱害(かんがい、干ばつ)が大凶作を引き起こすことは極めてまれだが、源平時代(12世紀)や戦国時代(15~16世紀)は旱害が最も恐ろしい自然災害だった。中世以前の傾斜地にある田は、雨水の恵みがなければ作物は育たず、旱魃になると収穫は皆無に近い状態になった。雨乞いの祈りも各地で行われた。当時は潅漑用の設備(ため池や水路など)も十分ではなく、水利状況の良いところだけ水を引いて田を作っていた。