ジョン・ミルン(来日時、筑波大学附属図書館資料)

明治新政府は殖産興業と軍備強化を国策の2大柱に据えた。だが、近代的な産業・軍事・医学・法律・教育方面の知識は比較にならないほど遅れており、その一方で欧米列強の政治・経済的圧力は高まる一方だった。そこで「近代化を急げ」との掛け声の中、薩長閥の新政府は欧米から「お雇い外国人」を招いて欧米への「追いつけ追い抜け」政策を推進した。

「お雇い外国人1概説」(梅渓昇)などによると、政府が雇った「官傭(かんやとい)外国人」は、1874年、1875年(明治7年、8年)が最高で約520人に上る。国別ではイギリス人266人、フランス人100人、アメリカ人58人、ドイツ人、33人、オランダ人19人などとなっている。イギリス人は鉄道などの技術者が多く、フランス人は造船関連などが多い。アメリカ人は北海道開拓を指揮する者が多く、オランダ人は河川・港湾関連事業に従事している。また出身国を問わず学術教師として活躍したものも少なくない。

今回は「災害大国」日本に招かれて、専門外の地震研究にとりつかれライフワークとした若きイギリス人技術者を取り上げる。