隅田公園(現在)

大震災直後の3大スポーツ公園造営

関東大震災の直後、前東京市長だった後藤新平は帝都復興院総裁(後に復興局総裁)として、広範な復興計画を立てている。後藤が見積もった予算は大幅に縮減されたものの、計画に沿って大小の公園が新設されることになった。最終的な東京復興公園計画は1924年12月の臨時議会で承認され、浜町公園や隅田公園、錦糸公園が造成されることになった。併せて、東京市に52の小公園が造成されることが決まっている。東京市に設けられた52の小公園は、近隣住民用の公園機能を持つ。また近隣する小学校校庭の延長として、時に児童の運動場や遊び場になった。

3大公園(浜町公園、隅田公園、錦糸公園)は、ヨーロッパで都市計画や公園事業について学んだ経験があり、復興局建設部公園課長を務めていた折下吉延の指揮のもとで造られた。折下は明治神宮造営局技師を務めた経歴があり、外苑の運動施設の建設にもかかわっている。その時の経験が生かされた。

3大公園に共通した特徴は、従来の公園に見られなかった大規模運動施設(プール、陸上競技場、野球場、テニスコートなど)を設けたことだ。芝生地を多くとり、近隣住民はもちろんのこと、全市民も利用できるレクリエーション中心の公園になった。また遊具をたくさん設置し、児童公園としても充実させた。

中でも、隅田公園は大規模なウォターフロント(海・川・湖などに面する水辺立地)を実現した日本初の公園だ。緑地の広がる公園は、平時にはレジャーとして、緊急時には避難場として使用できるようにした。面積は5万2700坪(17万4200平方メートル)と、全国の公園の中でも最大だ。完成は1931年だった。公園内にはボートレースの観覧席を設け、プールやテニスコート、児童公園が設置された。

すでに大震災前から、嘉納治五郎の提案によって明治神宮外苑競技場の建設が進められていた。外苑競技場を陸上スポーツのシンボルとし、復興3大公園と合わせてスポーツの振興を図ろうとした。復興3大公園のうち、最も早く完成したのは錦糸公園だった。同公園は1928年7月18日に開園し、同年12月に復興局から東京市に移管された。東京施行の小公園で最も早く開園したのは、1926年8月開園の月島第二公園、最後に開園したは1931年4月開園の蛎殻町公園他6公園だった。東京復興556公園の事業が全て終了したのは1931年だった。これ等の公園は老若男女すべてを対象として造られたスポーツ公園でもあった。