不本意な河川埋め立て

敗戦直後の東京には、空襲のために破壊された建物の残骸が至る所に山のように広がっていた。それを処理するのに、内務省(国交省前身)都市計画東京地方委員会は「不用河川埋立事業計画」との都市計画に逆行する事業を決定した。これはトラック16万台分と言われた焼跡の残骸を安井知事から「事業費なしで処理せよ」と命じられた都市計画課長石川が、上司の厳命に反対しきれず「例外措置」として対処したものだった。膨大な量のガラを川に投棄して埋立て、出来上がった土地を売却し事業経費に充てるという手法であった。

残骸の山の中から、空襲の犠牲者の焼け焦げた遺体が見つかることもまれではなかった。捨て場のないガラは、目抜き通り沿いにうず高く積み上げら悪臭を放っていて、GHQから政府や東京都に対して早急に排除しろとの厳命が繰り返し下っていた。結局、昭和22~25年(1950)にかけての埋め立てで、東京駅前の外堀、三十間堀川(さんじっけんほりかわ)、東堀留(ひがしほりどめ)川、竜閑(りゅうかん)川、新川、六間堀川、浜町川、平久(ひらく)川支川など、多くの都心部の水面が埋立てられた。石川は特に埋め立てに逡巡したのが三十間堀川であった。同川は、東京都中央区に存在した河川である。 川幅が約30間(約55m)あったことから三十間堀と呼ばれ江戸っ子に親しまれてきた。石川は追想する。

「区画整理の一部にガラの取り片付けがある。この仕事は初めから不幸な取扱いを受けた。これほど都市の景観をミジメにするものはなく、世間も又、そのように嫌がっていた。そして、いつしかそれが我々の責任であるが如く扱われる様になった。それにもかかわらず、これに対しては国庫補助は一文もない。従って都の予算にも出ない。仕方がないから、これで不用水路を埋め立ててその埋立地を売り立て、まかなおうと言う事になった。その際最も有名になったのが中央区にあった三十間堀川である。三十間堀川の埋め立てが出来た頃GHQがこれを見たいという。そこで案内したら非常にほめた。ほめている中に、埋立地の中央にある細い道を見つけた。『あれは何だ』と言うから『道路だ』と答えたら急に眼を丸くして『何だ、この埋立地に家を建てるつもりか』と言う。『良からぬことをするものだ』と逆にけなされた」(石川栄耀『私の都市計画史』)。
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三十間堀川は戦後の残土処理のため昭和23年(1948)から埋立が始まり27年(1952)には埋立が完了し、水路としての三十間堀川は完全に消滅した。水辺の埋め立ては、最終的に7万坪(23万1420m2)の造成地を新たに生み出した事業であった。

石川は「国土開発」に「復興計画と土地問題」を投稿している。

「復興計画は土地問題、建築問題及び建築物の運営問題の3段階になっている。その中、最も基礎的なものは土地である。特に日本の様に余りにも掛け離れて後進的な都市を有する国の復興に於いては後進性を取り返す為に土地問題が最重要になる。
道路にせよ緑地にせよ宅地に太陽の光線を入れる為の構想にせよ土地問題にならぬはない。人間にたとえるなら土地は身体、建築は衣装、動作が運営という事になる。(中略)。復興は土地から。土地は地主の良心から。結局復興は地主の良心に待つあるのみという事に誤りはない。国家の政策も社会の関心もここに集中さるべきである」(原文のママ)。

参考文献:拙書「石川栄耀」、都市計画学会「都市計画―特集石川栄耀生誕百年記念号」、鈴木博之「都市へ」など。

(つづく)