明治期、ダイヤーの工学教育論

ここで明治初期のエリート技術者教育を考える。

お雇い外国人教師ヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer、1848~1918)は明治初期に創建された工部大学校の初代都検(教頭職、英語ではprincipal)であった。同大学校は、殖産興業を急ぐ明治政府によって建てられた国立(工部省)の最高等工業教育機関で、帝国大学工科大学(現東京大学)と併合されるまでに、卒業後指導的役割を果たす土木技師や科学者を輩出した。琵琶湖疎水の設計施工で知られる土木技師田辺朔郎もそのひとりで、同校5回卒業生である。

英国・スコットランドの名門グラスゴー大学を卒業したばかりの土木工学者ダイヤーが都検に招かれたのは弱冠25歳の時であった。校長・大鳥圭介(旧幕臣、戊辰戦争での旧幕府軍首脳)は43歳だった。ダイヤーは同校の教育方針として工学の学理と実践を融合させるとの新たな教育理念を打ち立てたことで知られる。氏が第1回卒業生に訴えた講演集「エンジニアの教育」(Education of Engineers)に若き教育者の高等工業教育への情熱を感じ取る。氏はまずエンジニアは「学識ある専門職(learned profession)でならなければならない」と主張する。そしてエンジニア教育の重要課題として3点を強調する。(三好信浩著「ダイヤーの日本」を参考にする)。学力、実践力、教養の「三位一体」の高等教育である。

(1) 専門職である以上、当然のことながら専門分野の高度な学力を必要とする。専門職というとき、氏はスコットランドの大学が元来「教師・牧師・法律家・医師の専門職のための高等教育機関」であったことを指摘し、エンジニア教育も同等のレベルを目標にすべきであると指摘する。
(2)専門職という以上、専門の学力が実践能力となって工業の実務の中に発揮される必要があると述べる。スコットランドでは大学入学前か卒業後にかなりの実務経験(現場経験)をすることが当然と思われていた。経験主義である。士族の子弟が集った工部大学校では、ともすれば作業服に身を包んだ実務を軽視する傾向が見られたのである。
(3)エンジニアがとかく陥りがちな思想や行動の偏狭さを克服するために、教養教育を重視する必要があると論じる。

広い教養を習得させよ

氏の最後の指摘(3)は極めて重要であり、「エンジニアの教育」からさらに引用したい。「諸君は専門職の一般的な細目については十分立派な知識を得たと思いますが、広い公正な考え方で問題を処理するにはなお大いに欠陥があります。公共問題に関する諸君の意見は、専門的偏見と階級的先入観によってゆがめられる傾向にあります。もし諸君が、文学や哲学や芸術(音楽、絵画など)さらには諸君の専門職に直接役に立たないような他の科学にまったく門外漢であったならば、諸君は多くの専門職人に見られがちな偏狭、偏見、激情から逃れることが出来ないでしょう」。若き教育者の揺るがざる信念である。

後年「大学改革論」の中で、氏は論じている。「現代の技術教育の最大の欠陥のひとつは、学生にきちんとした一般教養を与えていないと思われることである。単に技術的に教育された人間は、概して貧困な人間性の見本のようになって彼らの主要な関心は小さな領域とカネを稼ぐことに限られている。仕事を離れた真の知的な喜びを知らないように見えるし、知的にも道徳的にも堕落しがちである」。1世紀も前のスコットランド人土木技術者(教育者)のエンジニア教育論は、自らの反省に立脚していると思われ、説得力に富む。いな、今日においてもなおその問題提起は鋭く教育者に解決を迫っているといえる。氏のエンジニア教育論の究極には、人間の全的発達という人間性そのものの教育が見据えられているからである。