震災で破壊された旧両国国技館(出典:Wikimedia Commons)

生き地獄、犠牲者10万人を超える

大正12年(1923)9月1日、関東地方は前夜来の風雨も次第に収まり、朝にはところどころでにわか雨が降る程度になっていた。午前中には、夏の日差しが雲間からさし始めた所もあった。9月1日は、八朔(はっさく、旧暦8月1日)にあたり、その年の新穀を納める節句で、各地の神社で祭礼が催され、農家では御赤飯などの御馳走を用意して、節句を祝う習わしがあった。子どもたちはお祭りや御馳走を楽しみに、始業式もそこそこに家路を急ぎ、教師たちもニ学期の準備があるものの、この日は土曜日で子どもたちが帰った学校でも、くつろいだ雰囲気があったに違いない。そんな日の正午前、皆が昼食の膳に着こうとしていた時、午前11時58分32秒、神奈川県西部から相模湾さらには千葉県の房総半島の先端部にかけての地下で断層が異常に動き始めた。<生き地獄>の予兆である。

関東大震災の大火災の原因を考えるとき、地震発生がちょうど昼食時で火を使う時刻であったことの他に、忘れてはならないのが地震発生時の気象状況である。能登半島近くに台風があった。関東地方は九州方面から進んできた台風の進路をはずれ、直接の影響は免れた。とはいえ、地震発生時刻には、まだ強い風が吹いていた。隅田川の左岸(東)側は当時の区名で、本所区、深川区、右岸(西)側は北から浅草区、下谷区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区である。

地震発生後1時間の午後1時では、延焼地域はほとんどない。隅田川の両側に火に手が点々と見える程度である。それが午後4時、午後9時、翌9月2日の午前3時と次第に燃え広がり、翌未明の時点で東京の下町低地(木造密集地帯)の大部分が延焼地域に飲み込まれた。延焼地域の中で火災が鎮火するのは、さらに翌日の3日午前10時頃だったとされる。その間、当時の東京15区だけでも、地震と火災によって約7万人の人命が奪われ、中でも本所区の被服廠跡(現在の墨田区横網町の震災復興記念館敷地)では4万4000人が大火によって引き起こされた火災旋風によって命を落とした。地震発生から4時間後のことであった。何とも無残である。

関東大震災の関東地方を中心とする犠牲者総数は10万5000人余りに上るとされ、日本の自然災害史上類例を見ない未曾有の大災害であった(犠牲者総数は資料により異なる)。同大震災では、相模湾の海水は激しい動きを示し津波となって沿岸各地を襲った。大島(現東京都)の岡田と伊豆半島の伊東で12m、房総半島の南端布良(めら)付近で9m、三浦半島の剣ヶ崎で6m、鎌倉で3mの高波となって襲来した。伊東では人家300棟以上が洗い流され、熱海では50棟、布良では90棟が流失した。

卑劣な流言飛語と朝鮮人虐殺

情報を遮断された帝都のちまたでは恐るべき暴力が広まっていた。流言ひ語の鬼火がパニック状態の民衆にとりつき、自警団や警察・軍隊の手によって朝鮮人の大虐殺が行われたのである。官憲がデマ情報を公言する中で民衆が起こした蛮行は、都市復興にまい進しようとする政府や東京市(当時)を背後から脅かした。

横浜市内に発生したとされる朝鮮人に関する流言(デマ)は、3つのコースをたどっと東京市内に激流の走るように流れ込んだ。(地名はすべて当時)。

その一は、川崎町を経由して六郷川を渡り、蒲田町、大森町から東京市品川方面へ、その二は、鶴見町、御幸村、中原町を東上して丸子渡船場を越え、調布村、大崎町を経て東京市内へ、その三は、横浜市近郊の神奈川町から西進して長津田村に達し、東北方向に進んで二子渡船場を渡り玉川村から世田谷村と三軒茶屋、渋谷町方面に二分してそれぞれ東京市内へ入った。流言はたちまち膨張して巨大な怪物に成長した。

おびただしい流言はすべてが事実無根であり、一つとして朝鮮人の来襲・井戸への毒流入などを裏付けるものはなかった。

流言は、通常些細な事実が不当に膨れ上がって口から口に伝わるものだが、関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかった、という特異な性格を持つ。このことは、官憲の調査によっても確認されている。大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果としか考えられない。その異常心理から、各町村で朝鮮人来襲に備える自警団という自衛組織が自然発生的に生まれたのだ。彼らは暴徒集団化していった。

自警団は町村自衛のために法律で禁じられた凶器を手に武装した。自警団の数は、9月16日の調査によると、東京府、東京市で実に1145の数に上った。所持していた凶器は、日本刀、仕込杖、匕首(あいくち)、金棒、猟銃、拳銃、竹槍などであった。暴力の炎は、朝鮮人の虐殺から社会主義者やキリスト教徒の拘束、謀殺、憲兵大尉甘粕正彦によるアナーキスト大杉栄と内妻伊藤野枝、甥の少年の虐殺へと導火していく。