新政府軍、海軍出撃

榎本軍堅持の戦局をがらりと変えたのは、新政府海軍出撃だった。4月22日、陸軍奉行・大鳥圭介は兵を木古内から撤収する。松前城を落とした新政府軍が北上して挟撃される恐れが生じ、それとともに海軍軍艦が接近してきたからであった。防御線は、箱館湾西際の矢不来(やぶらい、当時はやぎない)に頑強な陣地を構築した。4月29日、海岸の陸兵が攻めかかるのを狙い撃って寄せ付けない。午後になって、沖合い菊花の紋章の大旗を船首に翻した軍艦7隻が現れた。

空が濛々と煙で暗くなるほどの砲撃が始まる。初めて味わう艦砲射撃の威力は凄まじかった。とりわけ甲鉄艦のアームストロング砲の70ポンド(約32kg)の巨弾は、一発で胸壁を打ち倒して兵士を青ざめさせた。砲弾の破片で裂かれ、爆風で吹き飛ばされた戦死者があちこちに散乱する。矢不来陣地は戦闘能力を失い、全隊が箱館方面に後退した。二股口を死守した部隊は遊兵化してしまった。「敗北の構図」は決定的となった。

5月11日、ついに陸海軍の箱館総攻撃が開始された。東軍は海と陸から侵攻を開始し、五稜郭、弁天台場、その中間に位置する津軽陣屋など3拠点を分断した。5月7日の海戦で榎本海軍の軍艦回天・蟠龍を戦闘不能にして、制海権を確立していたので、箱館湾内の七重浜沖から各拠点に猛烈な艦砲射撃を浴びせかけた。その壮絶さは、「官軍方の大砲は凡そ三千世界随一の品と聞き居るに違わず、甲鉄船の舟に稲妻を見るような頭の上を通りブウブウブウと鳴り渡り、その玉落つる時にドンと音大なり」(「箱館軍記」)と現地の記録にあることからも想像できる。

閃光と大音響が箱館の海山にこだまして、人々の耳を聾した。それに呼応して箱館山西南方向から上陸した陸戦隊も進出してきて、近郊の七重浜と桔梗野で各拠点の堡塁から出撃する歩兵隊と戦った。この11日、地峡部の一本木関門付近の戦闘で、新撰組の土方歳三が銃弾に当たって戦死した。翌12日、2.7kmの長距離を飛来し、正確な弾着で五稜郭に落ちる艦砲射撃の至近弾を浴びて、古屋佐久左衛門が重傷を負った。アームストロング砲の70ポンド着発弾である。その後意識を回復せず、治療の甲斐なく死亡した。連日の猛烈な砲撃は兵士の士気を阻喪させずにはいなかった。次第に逃亡者の数が多くなった。

包囲は日一日と狭められた。5月15日、弾薬も薪水も尽き果てた弁天砲台が降伏を余儀なくされた。五稜郭の榎本武揚にも軍使が送られ、和平勧告が持ちかけられたが丁重に拒絶した。この大詰めの日々、五稜郭では将士それぞれの間で微妙な動揺が起きていた。

当時、榎本海軍の見習い士官で、後に明治政府に仕えて清国駐箚公使になった林董(ただす)は、その内幕をこう語っている。話中に出てくる医師・高松凌雲は古屋佐久左衛門の実弟である。箱館病院で敵味方隔てなく負傷兵の治療に当たり、非常に人望の厚かった人物である。

「箱館の官軍の方から、5月12日夜病院の高松君を紹介して、マグロ五尾と酒樽二つ(一説に酒五樽とある)を送ってきた。5月16日長々御滞陣につきこの品を送るという手紙が付いて来た。それまでは、官軍は残酷な者であるから降参すれば舌を抜かれるとか、頭へ釘を打たれるというので、兵はみな五稜郭に固まっていたのが、マグロ5尾と酒樽2つで軟化してしまった」。「敗北の構図」の結末であった。

北海道独立の夢、崩壊

五稜郭には厭戦気分が充満してきたのである。当然、上層部もそんな空気を敏感に嗅ぎ取っていた。榎本は内心では戦意を喪失していたが、将帥のプライドをどうにか保っていた。大鳥圭介のような本来「理工系」のタイプである人間はもっとあっさりしていた。

「大鳥圭介伝」にはこんな逸話も残っている。彰義隊創設者の一人だった本多晋(すすむ)によれば、生前の大鳥の口からこういう談話を聞いたというのである。「殺されやしない。その証拠に私にも大鳥様自身がこう言っていたことがある。『函館で降参した時も榎本は正直だったから、しきりに切腹したがった。一度切腹しようとするところを大塚鶴之丞(かくのじょう)に止められた位だが、僕はそう思っていたよ。なに降参したって殺されやしない』と」。

榎本の気弱さに対して、大鳥の神経の太さがよくわかる。死を覚悟した榎本が敵将に『万国海律書』の原書を贈ったという美談は有名だ。大鳥には、たとえ戦に負けても、旧幕歩兵隊の優秀な能力を相手に思い知らせて、目にモノを見せてやったし、ひと泡も二泡も吹かせたという満足感がある。

主だった人物が東京に移され投獄されたが、2年半ほどで釈放された。やがて榎本武揚は外務大臣になり、大鳥圭介は工部大学校校長、学習院院長などの後特命全権清国駐箚(ちゅうさつ)公使になった。

一方、投降した士卒は、津軽海峡を軍艦や輸送船で青森に運ばれ、身分や所属によっていく組みかに分けられて、弘前や秋田の寺院に収容された。その後、諸藩に身柄を預けられるが、やがて赦免されて思い思いに帰郷されて行く。下級の歩兵の扱いは簡略だった。わずかな旅費だけ支給されて国元に送り帰されて行った。苗字帯刀は一睡の夢だった。無残な結末であった。

参考文献:「幕府歩兵隊」(野口武彦)、拙書「大鳥圭介」、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)