陸奥との食い違い

政府は広島第5師団歩兵第11連隊第1大隊の出兵を命じた。5日大鳥は、海軍陸戦隊430人と共に軍艦八重山に乗り込み横須賀を出港した。出発に際し、総理大臣伊藤博文は「あくまでも平和裏にことを収めよ」と訓示した。これに対して、外務大臣陸奥宗光は「極めて已むを得ざる場合に及ぶまでは平和の手段を以て事局を了結することを第一義とすべし。若(も)し時局急して本国政府の訓令を請う暇なき場合あるに於いては同公使が適当な思料する臨機処分を施すことを得べし」(陸奥著「蹇蹇録」)。

二人の首脳の訓示には明らかに差異があった。外務大臣陸奥は開戦を想定しており、公使大鳥に自由裁量を与えている。6月9日、大鳥と海軍陸戦隊は仁川に到着し、10日にはソウルに入城する。動員令が出た混成旅団(旅団長・少将大島義昌)の先遣部隊も12日早暁、仁川に上陸し、日清両軍の衝突はもはや時間の問題となった。清軍は約80キロ南方に布陣した。公使大鳥は清国代表袁世凱と会談に入った。

「東学党の乱が収まった以上は、日本からの増兵は中止させましょう。したがって清国からの兵力増強も見合わせていただきたい」

大鳥の要請に袁世凱も同意した。大鳥は直ちに本国の陸奥宛に打電した。

「京城(ソウル)は平穏なり。暴徒に関する事情は異なし。追って電報するまでは余の大隊派遣見合わされたし」(原文カタカナ)。

だが電報が到着する時刻(6月11日夜)には、4000人の日本軍が仁川やその周辺の海上に駐屯していた。大鳥はこの後も「増兵の不可」を繰り返し打電した。本国政府は「大鳥公使が要求しない限りは兵士を仁川に止めるよう命令した」と伝えてきた。大鳥は「平和的解決」を基本にすえて袁世凱と交渉を進めた。だが日本の世論(特に新聞)は、「朝鮮の独立を妨げている清国を撃って退却させ日本が朝鮮の自立を助ける」との筋書きに満足し開戦論を煽った。<和平論者>大鳥も、ここに至っては「平和的解決」との方針を変更せざるを得なくなった。同時撤兵をすれば清国の袁世凱が日本軍を撤退させたことになり、清国の朝鮮における影響力が強化される。日本の影響力が低下する事態も予測される。そこで彼は、清国に先行して撤退を求め、それが拒否された場合には宗属問題を名分にして清軍を攻撃するとの案を本国に打電した。

この案は取り上げられず、外相陸奥から彼に届いた指示は「日本政府は自らも満足し且つ公衆の感情を満足せしむべき結果を得ざる間は撤兵できず、この機会を利用して朝鮮政府に漢城(ソウル)・釜山間の電線の譲渡などの利権要求をなすべし」との強攻策であった。新たな提案に大鳥は憤り反論した。が、陸奥は「両軍の衝突に際しては朝鮮の国王と政府を味方にすることが重要であるので、彼らの信頼を勝ち取るべく説得工作を行うべし」との指示をしてきた。