甲午農民戦争と出兵

明治26年(1892)7月15日、在清国公使・大鳥は朝鮮国駐箚(ちゅうさつ)公使の兼務を命じられる。前任の公使・大石正己(旧土佐藩士、後に農商務大臣)は、防穀令(朝鮮の地方官が米・大豆など穀類の日本輸出を禁じた令)事件の交渉の最中に任命された。外交官経験がない上に外交交渉の礼儀をわきまえない「紳士」からは程遠い人物であった。公使・大石は解任となり、学識にたける大鳥が朝鮮公使兼務となった。
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甲申事件(反政府クーデター)の首謀者で親日派の金玉均は公使竹添進一郎と共に日本に逃れた。亡命後10年を経て、金玉均に清国訪問の誘いがあった。李鴻章に面会できる希望を抱いて上海に行ったが、そこで金玉均を待っていたのは、高宗の王妃で独裁者の閔妃(びんひ)が送り込んだ刺客であった。短銃3発が彼の命を奪った。金の遺体はばらばらに解体された上、野良犬に食わせるという残酷無比な処罰が行われた。

親日派指導者・金玉均が暗殺された時を同じくして、明治27年(1894)、朝鮮半島では甲午農民運動(東学党の乱)が起こった。朝鮮南部の全羅道に勃発した東学道徒を中心とする農民蜂起である。東学は西学(キリスト教)に抵抗する儒教など「東の学」の意味である。朝鮮政府は邪教として弾圧した。だが酷税と地方官の悪政・腐敗に苦しむ農民の支持を得て勢力を拡大し、5月末には政府軍を打ち破って道都全州を占領した。

国王高宗(コジョン)は叛乱を鎮圧するため、6月1日清国に軍隊の派遣を要請した。甲申事件の後の明治18年(1885)4月に締結された天津条約によって、日清両国はともに朝鮮から兵隊を引き上げていた。条約はまた、日清両国は朝鮮出兵にあたって相互に事前通告することを取り決めていた。この時、外務大臣・陸奥宗光は清国の通告より先に、在朝鮮日本公使舘代理公使杉村濬(ふかし)からの急報によって、この援兵要請を知った。

朝鮮公使大鳥は、この年4月から外務省命令で一時帰国しており現地にはいなかった。帰国中の大鳥は杉村の電報の入る前の5月30日、陸奥外務大臣に「500人から1000人規模の派兵を準備し、清に行文知照し共同出兵を促すべし」との書簡を送っている。

6月3日、閣議は日清間の「朝鮮に対する権力の平均」を維持し「居留民を保護するため」という名分のもとに朝鮮出兵を了承する。閣議決定を受けて、明治天皇は5日、参謀本部に大本営を設置し、同時に朝鮮公使大鳥に直ちに帰任するよう命じた。