森文相の兵式訓練

森文相の師範学校重視は、既に記したように給費制にもあらわれており、全生徒に衣食の他、日用品、1週間手当などが給与された。墨・紙・ペン・鉛筆など文房具は「時の需要に応じて適宜」支給され、靴下は月2足が支給されるなど、相当優遇されていた。

だが森は国家主義的信念から学生の生活や各種訓練には軍隊方式を取り入れた。全学生が入れられた寄宿舎では、舎監(監督者)の下に厳格な規律ある生活が強要された。これは旧制高等学校が同じ全寮制をとりながら、かなり自治が認められていたのとは大きな違いである。

それは高等師範学校の軍隊式訓練は体操によくあらわれていた。体操は、その教育を開始するにあたって、明治11年(1878)官立の体操伝習所が設置され、アメリカから教師リーランドを招き、近代的普通体操の普及をはかっていた。だが、この時すでに陸軍の士官・下士官計4人を教官とし、歩兵体操が重要科目の1つにあげられていた。森文相は体操だけは文部省から陸軍省へ移管し、忠君愛国の精神を育てようとした。

この移管は実現しなかったが、森は高等師範学校長に陸軍省軍務局長・山川浩(旧会津藩重臣)を、また同校体育教官には陸軍将校を現役のまま任命した。森は、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典に参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎(旧長州藩士)に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けたが傷は深く翌日死去した。享年43歳。