青木氏は9月10日、決壊の数十分前に、会社を出て鬼怒川の様子を見に行った。決壊現場からは10km近くも下流だが、堤防が一気に低くなっている高野町という場所があり、そこが最も危険だと青木氏は考えていた。すでに雨は小降りになっていたが、嫌な胸騒ぎがした。「上流で雨が降り続けば下流であるこの辺は時間差でやばくなるということが昔から言われていました」(青木氏)。 

その時点で、高野町の堤防高まであと30㎝に迫るぐらいまで水が上がっていたという。「『急激に水かさが増えています。氾濫しますから、逃げてください』と、現場にいた警察官が避難を呼びかけていました。私も、もったとしてあと1~2時間だと思いました」。 

事務所には、社長、専務に加え、事務3人、営業2人の計7人が勤務しているが、当日は、営業2人が外出していたので、残る事務員をすべて帰宅・避難させた。営業担当には、電話で周辺の状況を伝えた。 

その直後、防災行政無線を通じて鬼怒川決壊が伝えられた。「何を言っているかよく聞き取れませんでした。決壊はわかりましたが、どこが決壊したのか…」(青木氏)。 

テレビをつけ、ニュース映像から三坂地区であることが分かった。本社までは10㎞以上も離れている。青木氏は、社長と2人で、サーバーや重要書類などを机の上など可能な限り高い場所に移した。BCPの策定に伴いデータはクラウド化することを検討していたが、本社サーバーは、まだ対策を終えておらず、最も重要な顧客データが入っていた。平屋建ての建物のため、2階に持って行くわけにいかず、それが精一杯の対策だった。 

祖母にも避難の準備をしてもらい、15時には会社を出て、青木氏が生活しているつくばみらい市のアパートに、両親、祖母を避難させた。翌日は、道路が封鎖され、会社に近寄ることすらできなかったという。 

従業員とは、携帯電話やLINEで連絡を取り合った。以前から社内外との連絡体制は強化していたが、BCPの策定の過程で、取引先などへの連絡体制も見直し、電話が使えない場合は、ホームページ上から情報発信することを決めていたため、「電話での連絡は福島工場にすること」「メールは使えること」などを制作業者に依頼し載せてもらった。 

洪水による社屋躯体への大きな被害はなかったが、駐車場に止めておいたリースのハイブリッド車は廃車になった。さらに、社内が浸水したことで壁の中のグラスウールの断熱材が水を吸い上げ、すべての壁を取り外して消毒する工事をしなくてはならなかったという。電気配線の点検・修理なども行った。「昔からのお得意さんの電気屋さんが早い段階から修理にかけつけてくれ助かりました」(青木氏)。小さなことではあるが、清掃業者や設備業者がつかまらずに、復旧が思うように進まなかった企業もあるという。 

営業業務は2週間ほど止め、本社の復旧を優先させた。 幸いだったことは、火災保険の水災特約に入っていたことだ。これにより、復旧に要したほとんどの費用がカバーできる見込みだという