明治期の横浜港(横浜開港資料館蔵)

大隈外相のパーマー案擁護の勝利

大隈外相はパーマーの訴えを聞き、内務省側から攻撃され孤立しているパーマーに深く同情し、最大の擁護者になると決意した。オランダ人技師案に容赦なく反駁を加えるパーマーの執念が、大隈を動かした。大隈は人物論あるいは工事の経験・実績の観点からパーマーをオランダ人技師より優れていると断じ、さらにはパーマーがロンドン・タイムズ記者を兼ね、しばしば同紙上に日本の文明開化の状況を好意的に紹介した労を大いに多とした。この際パーマー案を採択し、イギリスの歓心を買うことが条約改正交渉を目前に控えている時期を考慮すると「外交戦略上」からも得策であると弁じた。巧妙な論法である。

こうしてオランダ人技師を推す内務省と正面から閣議でぶつかり、予断を許さぬ状況となった。2カ月間の論議の末、黒田首相は山県内相を押さえて、大隈外相案の採択を裁断した。首相が山県と同じ長州藩出身の後輩・伊藤博文から薩摩藩出身の黒田清隆に代わっていたことが山県の立場を弱めたかもしれない。薩長出身者ではない大隈外相の筋道だった弁護が人脈を越えて勝利をもたらした。

横浜築港は大隈の意向通り、内務省土木局が管理せず、神奈川県知事が臨時横浜港湾局長として管理責任者となり、パーマーの設計監督のもとに同21年7月より築港工事が始まり、横浜港の基礎が築かれたのである。大隈外相の政治的深慮遠謀が内務省案を見事に覆したのであり、外務省の意向が築港事業に大きく反映することになる。横浜知事は、築港用工事機械やその他の関連道具類の購入についても、外務省の海外情報網に頼り、外務大臣を通じて在米各総領事をわずらわし、機具メーカーの所在地や性能、値段などについて調査させているのはその一斑を表すものである。

防波堤の崩壊

横浜築港工事は明治22年(1889)9月、4カ年の継続事業としてパーマーの設計に基づき着工された。北防波堤と東防波堤に分かたれ、両堤をもって港湾区域を画した。前者は翌23年(1990)4月、後者は同年6月着工され、両堤ともその両側での捨石作業から始まった。当初、パーマーが作業員を監督し作業を指揮したが、工事が進行するにつれて迅速な工事が必要になると粗製乱造に流れ、コンクリートの突き固め工程はかなり省略された。明治25年(1892)11月に至り、北防波堤に積畳したコンクリート塊が亀裂を生じ崩壊するものがあり、工事関係者をふるい上がらせた。翌年1月以降、500余りの亀裂塊を発見したが、その原因を明らかにすることが出来なかった。

横浜臨時港湾局長(神奈川県知事・内海忠勝)は、その原因および予防方法を調査して欲しいと内務大臣に要請した。政府は3月25日調査委員会を設置し、原因および予防策を検討させた。調査が長引いたため、同年7月7日伊藤首相は防波堤工事の一旦中止を指令した。調査委員会は同年11月ようやく各種調査を完了し、原因としてセメントの砂に対する分量が少なかったことや、小割栗石の形状が大きすぎて原料が均一ではなかったため、塊の内部に空隙が生じたこと、突き固めが十分でなく内部の構造が空疎になったことなどを指摘し、合わせて技術的改善策を答申した。塊の突き固めが浅く、多大の空隙を生じ、海水がその内部に浸透し亀裂を生じ、ついには崩壊したのであった。手抜き工事の大きな付けである。

工事の責任者パーマーは明治26年(1893)2月10日病没し、内務技師・石黒五十二が後を担当し、以後築港完成までその任にあった。試行錯誤の後、予定よりも3年遅れて明治29年(1896)5月末に2つの巨大防波堤が完成した。横浜築港は日本における最初の大規模な海洋土木事業であり、今日の横浜港の基礎を造った。のみならず、後年起工された幾多の築港技術に多くの教訓(反省)を与え、日本の港湾修築史上画期的な段階を画したのであった。横浜港はアメリカよりの返還金を原資に、オランダ人技師との確執に勝ったイギリス人技師パーマーの設計に基づき、大隈外相の政治的配慮により実現した。苦難を経て「国際港」の名を冠するに至った。横浜港が次に崩壊にさらされるのは大正12年(1923)関東大震災で、壊滅的被害を受けるのである。

参考文献:「日本築港史」(廣井勇)、「横浜築港一件」(外務省外交史料館蔵)、横浜市立大学教授寺谷武明氏論文「横浜築港の黎明」。

(つづく)