殿堂入りの記念レリーフ(日本サッカー協会、サッカーミュージアム)

体操の理論と実践

坪井は明治15年(1882)、リーランドが伝習所や東京高等師範において実際に生徒を指導した実技と著書「新撰体操術」(英文)の体育理論をまとめ「新撰体操書」(金港堂)を刊行した。同書は筋肉発達(スポーツ理論)を目標としたものというよりも身体を正常な健康状態にすることを目的にしたものである。彼は同書を活用しながら全国の学校に出張して体操の普及を図った。

明治18年(1885)4月、坪井は教え子で高等師範教員の田中盛業(1859~1924)と共編著で「戸外遊戯法」(金港堂)を刊行した。同書は坪井自身が言っているように「この法に関して未だかつて一書を著せるを見ず」であり、日本人によって書かれた初の近代スポーツ解説書である。欧米で行われていた戸外遊戯法の関連書籍から主要な内容を選択して翻訳し、それに実際指導していた実技も取り入れて編集したものである。

内容は唱歌遊戯、行進遊戯、競争遊戯、ボール遊戯など21種類で、第17章の「フートボール(フットボール)」をはじめとしてローンテニス、ベースボールが紹介されている。スポーツマンシップやフェアプレーの重要性も指摘している。ここに初めてフットボールが日本語で紹介されたのである。初のサッカー解説書である。坪井の指導により伝習所で「運動会」は始まったのもこの頃であった。「運動会」はたちまちのうちに全国の学校に広がっていく。19年、体操伝習所が廃止となり、同校は東京高等師範に吸収された。坪井は東京師範学校教師(助教諭)となる。34歳。

<付録>明治初期の文明開化の時代から、イギリス生まれの近代スポーツ・フットボールが日本に導入された経緯を略記する。
・明治6年:東京築地海軍兵学寮にて、A.L.ダグラス少佐及び33名のイギリス海軍兵がフットボールを伝える。(軍事)
・明治7年:工学寮(工部大学校、東京)にて、イギリス人講師R.ジョーンズがフットボールを指導。(学校教育)
・明治13年11月:横浜フットボールクラブのオープニング・マッチが実施される。(外国人居留地)
・明治14~15年:地方府県の師範学校の求めに応じて体操伝習所が「蹴鞠」3個を製作供給する。(学校教育)
・明治16年6月:大学予備門の英語教師F.W.ストレンジが「Outdoor Game」を著し、フットボールを紹介する。(学校教育)
・明治18年4月:伝習所教員坪井玄道らが「戸外遊戯法一名戸外運動法」を編著作し、その中でフットボール(蹴鞠ノ一種)を紹介する。(学校教育)