コロナ禍で露呈した大衆迎合政治の危うさ(写真:写真AC)

政治は本来、結果で評価されるべきであることは万人が認めるところだろう。しかし、現実は異なる。

日本のコロナ対策は国内評価が謎の低さ

日本におけるコロナ禍は諸外国と比較して、感染者数・死者数などのマクロデータ上の被害は小さく、いわゆる「さざ波」であった。「何もしなければ42万人が死亡する」といわれた当初から考えると明らかに被害は小さく、それは何かした結果であり、結果責任ならば評価に値するはずだ。しかし、安倍政権、菅政権と、コロナ対策では不作為、後手後手とやることなすこと批判され続けた。

「アベノマスク」は単なる無駄使いだったのか(写真:写真AC)

最近も「アベノマスク」を無駄使いと批判しているが、あれがなければマスク供給不足の解消はいつになったのか。オイルショック時のトイレットペーパー不足と同様の構造になり、需要の高まりで買い占め、在庫抱え込み、売り控えも手伝って需給バランスが崩れた状態を解消させた効果は大きい。実際の利活用以上に、供給不安を解消させる絶妙策だったのだが。

また、廃棄にも批判が集中しているが、在庫過剰時に損切り処分するのは棚卸管理経験があれば当然と理解できる。批判している人たちは無知を曝け出していることを認識するべきだろう。そして、廃棄意向の発表に対して、需要が高まったのは「アベノマスク」に利用価値がある証でもある。

政治と経営を比較すれば見えてくる

企業経営でこの様なことをやっていては経営が行き詰まるのは当然だと冷笑されるだろう。DX化し、業務効率改善して生産性を高め、従業員の安全・健康を第一に考え、組織風土を改善する。企業では至極当たり前のことを国家運営で行わず、足の引っ張り合いに終始する姿は、最近特に見るに堪えなくなっている。

政権攻撃を目的とした情報の拡散でインフォデミック環境に陥り、国家運営上のステークホルダーである国民の世論が誘導され、政策遂行上のブレーキとなり得ることは、民主主義が抱える問題だろう。

インフォデミック状態でも政治は強い姿勢が必要(写真:写真AC

それでも短期的には、世論の逆風を受けながらも本来あるべき姿を目指し、科学的論理的な情報にもとづいて、国家としての全体最適を目指す強い姿勢を堅持するべきである。そのための説明責任を果たすべきだろう。たとえ最終的に国民の理解を得られず、結果として政権を失おうとも。