一人一人考えるリスクは異なる

ところで、日本語の「危機管理」という言葉は、事故や災害が起きる前に、なるべくそのリスクを洗い出し、そうした事故が起きないように、あるいは起きても被害を減らすように事前対策を講じる「リスクマネジメント」と、実際に事故や災害が起きた後にその被害をなるべく小さくする「クライシスマネジメント」の2つの言葉が組み合わさった概念として使われることが多いが、前者においては、ガバナンスが求められ、後者においてはガバメントが求められる。

ガバナンス(governance)とは古代ギリシャ語の「舵取り」に由来する言葉で「組織などをまとめあげるために方針やルールなどを決めて、それらを組織内にあまねく行き渡らせて実行させること」である。その主体は権力者とは限らず、むしろ一般市民も含め、対象となる人々の合意形成の実質的なプロセスにあたる。一人一人の意見を聞くなどして、それぞれが納得いくルールを作っていく過程がガバナンスだ。

一方、ガバメント(government)は、政府が上の立場から行う法的拘束力のある統治システムとして使われるケースが多いが、要は、政府でなくても、特定の立場の人たちが、権力を行使して、集団に対して一定の秩序を付与しようとすることと考えることができる。もちろんガバメントには、独裁的な、あるいは間違った判断が行われないようにする仕組みが必要になる。

ではなぜ、リスクマネジメントにガバナンスが求められるのか。それは、一人一人がリスクをどう定義し、受けとめるかは一律・同一なものではなく、それぞれの立場によって受け止め方が異なるからだ。

例えば家の中にちょっとした段差があったとする。子供や高齢者にとってその段差は大きなリスクに映るが、大人からすると気付きもしないためリスクとは考えられていないことが起き得る。逆に、大人がぶつかりそうな梁があったとすると、子供にしてみたら届くわけもないためリスクとしては受け止められていない。それでも家庭の中には同じリスクとして存在していて、どちらかがケガをすることで家族は大変なことになる。新型コロナウイルスにあてはめて考えれば、そのリスクを重大と見る人もいるし、大したことがないと考える人もいる。このようなことを主観的リスクと客観的リスクというような言い方をするが、そもそも、ある事象をいかにとらえるか、その枠組み(フレーム)によって一人一人の主観的リスクは変動するということだ。だからこそ、組織がリスクマネジメントを行うには、誰に対してどのようなリスクがあるのかを把握し、そのリスクを回避、軽減するための一定のルールを作る必要がある。ここで求められるのがガバナンスとなる。つまり、なるべくそれぞれの意見を聞いて、合意形成を得ながらルールをつくっていく過程となる。

トップを支える機能こそ重要

一方、いざ危機が顕在化して発生した際には、それぞれの意見を聞いて合意形成を図っているような時間はなく、権力を持ってでも人々の行動を統制するガバメントが求められる。なぜなら、一人一人がそれぞれの考えに基づき勝手に行動を続ければ、その人が危険にさらされるばかりか、その人を助けようとする人、さらにその人の家族、周辺の人にも影響を与えてしまう。感染症はなおさらで、こうした人がウイルスをばら撒くことにもなる。

さらに、災害でも言われていることだが、危険が発生しているにもかかわらず安全行動をとらずに周りの人と同じように行動しようとする集団性バイアス、自分だけは大丈夫だと思ってしまう楽観性バイアス、自分は対策がしっかりしているから大丈夫だと思ってしまうベテランバイアスが加わり、さらには、自分は感染しても問題ないから普段通りの行動を取り続ける、というリスクテイカーまでもが現れ、人々の行動はバラバラになる。したがって、こうした行動を規制するために、一定の強制力を持ったガバメントが求められるようになる。その際、トップが適切な指示を出せるようにするためには、専門的知見からの分析に加え、必要となる資源や資金の把握、それをわかりやすく伝える広報担当など、トップを支援する機能が必要になる。アメリカのCDC(米国疾病対策予防センター)はその最強チームとも言えるが、感染症に限らず自然災害についても、こうした専門的な知見を持った組織が日本の場合は十分に整備されていない。

そもそも日本は、ガバメントや権力に対して極めて慎重になる傾向がある。その際たるものが、安倍首相が目論む憲法への「緊急事態条項」の追加。すなわち、「大災害や武力攻撃などによって国家の秩序などが脅かされる状況に陥った場合、政府などの一部機関に大幅な権限を与えたり、人権保障を停止したりする、非常措置をとる」ことを定めた規定なのだが、過去の戦争の苦い経験から反対の声も依然として強い。