手と足をもいだ丸太にしてかへし

鶴彬の句碑(場所不明、筑波大学附属図書館資料)

昭和12年は、いうまでもなく、日中戦争が始まったときである。提灯行列と旗行列、万歳の歓声のどよめきに送られて兵士は中国大陸へぞくぞくと送られていった。「アジア解放」の皇軍と聖戦の名の下に、荒々しい吐息ときらめく銃剣のときであった。

戦闘は泥沼化して厳しくなり、兵士たちは、白木の箱に包まれて帰ってきた(戦死したのである)。

しかし「英霊」となって帰国できる兵を、羨ましく思う兵もいたのである。両手両足を失い、カメの中に首だけ出して還った兵がいる。その兵にとって、カメは生涯の住み家だったという。

・高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲
・屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい

同じときに発表した鶴の川柳である。日本軍はせきを切った洪水のように中国大陸の要衝をめがけて殺到した。蒋介石(国民党)と毛沢東(共産党)の中国軍は抗日戦線を張り、激しく抵抗した。日本の新聞は勝利に次ぐ勝利の報(中には虚報もあった)で紙面を埋めたが、それは点と線を占領したに過ぎず、戦争だどこまで続くぬかるみの様相を見せ始めるのである。詩人としての鶴のまなざしは、新聞報道の裏側の、語られざる事実に向けられ、これを凝視するのである。そして、官製の報道の裏にある戦争の真実を冷徹に歌うのである。なにも恐れるものがないかのように(言論弾圧は熾烈を極め、新聞は軍部の言いなりになった)。