小栗父子の墓(高崎市・東善寺)

新政府軍の攻撃

忠順は権田村への土着を幕府に願い出るにあたり「自分は知行地を返納し、そのようにしてでも活計をたて、農兵を組織して世の成り行きを見、万一の時の御用に立ちたい」と申し出ている。新政府が順調に推移すればそのまま上州の田舎で生涯を終える覚悟であった。主君が戦わない(恭順)と決めた以上、主命に背いて戦うことはしない。罷免された以上、自分の役目はこれで終わった、との思いであった。

打ちこわしの騒動が一旦静まると、村は平穏を取り戻し、忠順は東善寺からおよそ1km下手の観音山に建て始めた居宅建設の現場に通う日々が続いた。権田村に屋敷を建て、周辺の村人と親交を結んで土着の夢が結びつつあった忠順の身辺に、西軍の監視の目が厳しく注がれ始めた。打ちこわし自体が西軍の陰謀とは思われないが、2000人の暴徒を撃退した人物が幕府第一級の主戦論者であることは、関東へ進軍して江戸を目指す西軍にとって見逃すことの出来ない存在であった。西軍の主力である薩長勢にとって、小栗は幕府の近代化政策を次々に実行して来た恐るべき実力者であった。偉才であった。

上州の高崎、安中、吉井の3藩は、慶応4年4月22日付で、東山道総督府から小栗追討令を受けた。小栗については、「陣屋を構え」「砲台を築き」「容易ならざる企て」を立てている、という「注進」が諸方からあるので放っておけない。「深く探索したところ逆謀が判然」したから3藩で「追捕」せよ、との指示であった。

西軍の東山道鎮撫総督は岩倉具視の子具定、参謀は板垣退助(土佐)と伊地知正治(いちじ まさはる、薩摩)である。当時奥羽越列藩同盟が組織され、西軍に反抗する勢いを見せていた。越後方面の反西軍勢力と気脈を通じて、薩長軍の後方を襲うつもりではないかと疑った。

3藩代表は命令を受けて現地に赴いたが、命令に記された謀反の動向は見えない。その上、小栗が大砲1門、小銃20挺を引き渡して明白に弁明したので、3藩代表は引き上げた。翌日、小栗は養子の又一を高崎の西軍出張所に出頭させて恭順の意を表明させた。5月4日夕刻、高崎までやってきた東山道鎮撫総督府の軍監原保太郎、同豊永貫一郎はそれを聞いて激怒した。小栗主従にとって、宿命の事態に進んでおり、原や豊永は3藩の藩兵を引き連れ夜中に出て三ノ倉村へ宿陣した。

取り調べもなく斬首

小栗は、会津方面に妻子ら家族を逃がすことにしたが、彼自身も家臣や村役人に勧められて、家族とともに一旦山間部の亀沢まで家族と共に避難し大井彦六宅で休んでいた。そこへ、高崎方面の様子を探りに行っていた権田村名主佐藤藤七が馬で駆け付けた。

「どうか殿様にはお寺にお戻りいただきたい。もしお戻りにならない場合は、村民が難儀しますゆえ」と訴えた。忠順だけ東善寺に戻った。

西軍に脅されて震え上がった3藩は、副巡察使長州藩士・原保太郎(22歳)、同じく土佐藩士・豊永貫一郎(18歳)に率いられて、4日夜半に再度権田村へ向けて出兵した。翌5日早朝、東善寺正面から入っていくと、忠順主従は本堂に端然と座って、これを迎えた。原、豊永は忠順および家臣・渡辺多三郎、荒川祐蔵を捕らえて、忠順を駕籠で三ノ倉の屯所・戸塚平右衛門宅へ引き立てた。この時寺でも屯所でも忠順に対する取り調べは一切なかった。問答無用。殺すことだけが目的だった。

閏(うるう)4月6日朝、四ツ時半(午前11時)忠順主従は烏川の水沼河原に引き出され斬首された。初めに家臣・大井磯十郎、渡辺太三郎、荒川祐蔵の3人が斬られた。磯十郎は「一言の取り調べもなく、お殿様がこんな所でご最期とは残念だ!」と大声で叫んだ。

忠順が「磯十郎、この期に及んで未練がましいことを申しでないぞ」とたしなめた。

「何か言い残すことはないか」。原保太郎が忠順に問いかけた。若輩者に対し答える気はなかった。

「なにごともない」と答えた。が、「すでに、母と妻は逃がしてやったから、どうか婦女子には寛典を望む」と付け加えた。原は「相分かった」とだけ答えた。
忠順を斬った人物は、従来原保太郎とされてきたが、安中藩徒歩目付浅田五郎作が命じられて斬ったというのが真相のようである。小栗は数えで42歳だった。日本の近代化の必要性に目覚め、傾いた幕府の最後を支えた幕臣が、何の取り調べもなく、新政府軍の若輩によって一方的に処断され烏川の露と消えた。斬首を命じた原保太郎は、その後山口県の知事に二十数年も居坐り、さらに北海道長官となって巨財を得、貴族院議員となり89歳まで栄華の中に生きた。

参考文献:「小栗上野介忠順と明治維新」(高橋敏)、「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編)、筑波大学附属図書館史料。

(つづく)