言論の死と国際的孤立

昭和6年(1931)9月の満州事変勃発を契機に、朝日新聞は軍事行動追認へ論調を変えた。社説転換の象徴とされるのは、この年10月1日の大阪朝日の社説だ。

「満州に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はない」と書いた。それは朝日が掲げて来た「統一中国実現への支援や中国民族主義の肯定という基本理念と、満州は中国の一部だという事実認識をすべて捨て去ることを意味する」(後藤孝夫「辛亥革命から満州事変へ」)とも言えた。

昭和7年(1932)3月、日本は「満州国」を独立させ、実権を握った。「傀儡(かいらい)政権」である。イギリスのリットンを委員長とする国際連盟の調査団が実態を調べ、10月に報告書を発表した。

(1)「満州国」は自発的な独立運動でできたとは考えられない。(2)日本の満州での権益は無視しえない。(3)中国の主権下で満州に自治政府を設けるべきだ、などの内容だった。

日本に配慮した報告書だったが、「満州国」を承認していた日本側、特に新聞は憤激した。10月3日の社説には非難の言葉が並んだ。東京日日(現毎日新聞)の見出しは「夢を説く報告書、誇大妄想も甚だし」。東京朝日も「錯覚、曲弁、認識不足」と題して、「歴史を無視したる空論」と決めつけた。満州事変以降新聞を支配した無分別な高揚が「慣性」のように働いていた。

一方で、リットン報告書に基づき日本軍の撤退勧告などを含む報告案の内容が明らかになると、国際的孤立への不安も高まった。東京朝日は昭和8年(1933)2月18日、「勧告書は判決文にあらず」と題する社説で、連盟から脱退には慎重な姿勢を見せた。ただし、「勧告書が日本の立場を理解せず、随(したが)って極東平和の確立に対して効果的手段を指示し得なかったとは、吾人の深く遺憾とするところ」とも述べる。

「満州国」に固執しながら、国際的孤立も避けようとする立論には所詮(しょせん)、無理があった。報告案は42対1で採決された。反対は日本だけだった。日本代表は退場し、国際連盟脱退が決まった。

謝辞:「新聞と『昭和』」(朝日文庫)は良書であり、多くの引用をさせていただいた。あらためてお礼を申し上げる。

参考文献:「太平洋戦争と新聞」(前坂俊之)、国立国会図書館及び筑波大学附属図書館の関連文献。

(つづく)