昭和天皇の信を失い、内閣総辞職に追い込まれた田中義一首相

<満州某重大事件>との隠ぺい呼称

張作霖が爆殺されてから半年経った。事件は奇妙な名前で呼ばれ始めた。「満州某重大事件」。東京朝日新聞に初めて「満州の某事件」という見出しが登場したのは、事件の年の12月25日付夕刊だった。田中義一首相が外務政務次官の森恪(つとむ)らと会って「民政党が政府攻撃の重点とする満州の某重大事件に関し特に意見を交換」したことを伝える記事だ。

張作霖事件が日本側の謀略だと知った野党の民政党は、24日に召集された第56回帝国議会に臨むに当たり、「暴露戦術」もちらつかせ倒閣をうかがった。年が明けて昭和4年(1929)1月22日、田中は民政党総裁の浜口雄幸らに申し入れた。

「いわゆる満州における重大事件は国際関係に鑑(かんが)み国家のため、この際議場の問題とされぬよう切に希望する…御質問ありとするも政府は…調査中と言う外何ともお答えする事は出来ぬ」(23日付夕刊)

一方、民政党の浜口も、真相暴露が国際社会で日本に不利益をもたらす影響を考えざるを得なかった。真相を明らかにする方向ではなく、倒閣の揺さぶりの道具に使う形になった。

与野党ともに真相究明に及び腰だった。

そこで登場したのが、「満州某重大事件」という持って回った言い回しだった。新聞は与野党の煮え切らないやりとりを鋭く突いた。東京朝日は「早く事を明々白々の内に公表して、内外の疑惑を解くべし。その上で責任が無ければよし、責任あらば責任の所在を明らかにして遅くはないのである」(5月15日社説)。

だが新聞はそこまでで筆を止めた。政府による言論統制に加えて、報道機関として対外関係への配慮もあったのだろう。自ら真相を調べて報じることはなかった。

天皇は真相を知っていた

昭和天皇は張作霖爆殺の真相を知っていた。「この事件の主謀者は河本大作大佐である、田中(義一)総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、・・・河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積りである、という事であった」(「昭和天皇独白録」)。

田中首相は当初、昭和天皇にかなり率直に報告し、処罰も覚悟していた。だが有力閣僚や陸軍の強い反対で、姿勢を後退させる。

「田中は再び私の処にやってきて、この問題はうやむやの中に葬りたいと言う事であった。…私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で言った」(同前)。

昭和天皇の信を失い、田中内閣は昭和4年7月2日、総辞職する。だが事件そのものは結局うやむやにされた。

「満州某重大事件の解決に関しては政府及び軍部においても苦心し・・・事件の内容はこれを発表せず、ただ責任者処罰だけは御裁可を仰ぎ1日付をもって左の如く発表した」(7月1日発行の2日付東京朝日夕刊)

張本人・河本は軍法会議を免れ、警備上の不備を理由に停職となっただけであった。謀略を敢行しても処罰されない。その事実は、軍人が独断専行を強める一因になった。

張作霖事件から3年後の昭和6年(1931)9月18日。その現場から数キロ先の柳条湖で、日本が経営する満鉄線が爆破された。関東軍は「中国側の仕業」として、満州各地を占領した。首謀者は2人の関東軍参謀だった。河本の後任の板垣征四郎と石原莞爾である。だが謀略の全容が明らかになるのは戦後のことだ。当時の若槻礼次郎内閣は「不拡大方針」を表明した。だが関東軍は兵を進め、朝鮮駐屯の日本軍も同月21日、独断で満州に入った。ここが歴史の分かれ目だったが、閣議も軍事行動を認めてしまった。朝日も社論を転換した。軍が独断で動き、政府が追認する。新聞も謀略を疑いつつ追認に加わる。張作霖事件でも、満州事変でも、その構図が繰り返された。