日本の大学で最大の総合体育館(筑波大学キャンパス)

漱石の高等師範への影響

漱石の英語教育が高等師範学校にどのような影響となって受け継がれたかは、私には論じることは出来ない。東京高等師範英語英文科の卒業生で同校や東京教育大学で長く英語英文学を講じた英文学の泰斗福原麟太郎(1894~1981)は「夏目漱石」(荒竹出版)の「英語教師の挑戦」で「英語教師は、いつでも、夏目漱石に挑戦している」と冒頭で書いている。そして漱石に影響を受けた作家や英文学者を列記した後書く。

「英語教師は、英会話をしたり、(英文の)手紙を書いたり、レッテルを読んだりする稽古事(けいこごと)の先生では決してないのである。英米人は、いかに生きるか、いかに考え、いかに感じるかを、生の英語を教えることによって、日本の青少年に伝える役目を持っている。それが窓の第一の効用である。窓よ明るく開け。(中略)。(英語教師は)やはり、漱石に挑戦してみてほしい。漱石に挑戦するほどの人は、向学の精神に満ち、文学の喜びによって生命をいききと伸ばしたいと思っている人だ」

福原はわずかに2年間とはいえ若き漱石が母校の教壇に立ったことを同じ英文学を専攻する後進の学究として誇りに思っている。

若き漱石を高等師範学校の英語教師に招いた初代校長・嘉納治五郎(1860~1938)については、連載ですでに2度取り上げている。同校の偉大な校長嘉納を語ることは、高等師範学校から東京教育大学を経て筑波大学まで(明治・大正・昭和・平成まで)の1世紀半の間校風として受け継がれて来た「文武両道」や国際性尊重の精神を語ることになる。つまり「二つの金メダル」の原点を再確認することになる。

日本オリンピックの父・講道館創設者、嘉納治五郎~その大いなる精神と実践~
http://www.risktaisaku.com/articles/-/6005

■講道館柔道の祖・嘉納治五郎・再説~その国際感覚と徹底した平和主義~
http://www.risktaisaku.com/articles/-/8946

講道館柔道の創始者としても知られる嘉納は、明治・大正期の著名な教育家であるだけでなく、日本の初代IOC(国際オリンピック委員会)委員、日本体育協会の創設者である。貴族院議員でもあった。

嘉納は、幕末に摂津国御影町(現兵庫県神戸市東灘区)の酒造家嘉納治郎作の三男として生まれる。進学校で知られる私立灘高の構内にも嘉納の像が立っている。同校の事実上の創建者だからである。明治8年(1875)東京帝国大学の前身、開成学校に入学する。勉学のかたわら福田八之助について天神真楊流、飯久保恒年について起倒流の柔術を学ぶ。明治15年(1882)卒業して、学習院英語教師となるかたわら、下谷稲荷町の永昌寺の書院を借り、塾を開いて「講道館」と名付け塾生に柔道を教える。今や世界共通語となった柔道(ジュードー)は嘉納の造語である。古来の柔術から脱皮したことを意味する。

明治22年(1889)九段富士見町に道場を開き、柔道諸派流の技術を統合し、体育的に再編成した流儀を完成し、講道館柔道の名乗りをあげた。文部省から海外視察に派遣された後、第五高校(現熊本大学)校長となり、文部省参事官、第一高校(現東京大学)校長を経て、明治26年(1893)東京高等師範学校の校長となる。「知育・徳育・体育」の三位一体教育を唱える嘉納は、体育(英語PE(Physical Education)を嘉納が和訳)をしきりに奨励し、体育科を新設してレベルの高い体育教師の育成に努めた。筑波大学はスポーツ競技の各分野で優秀な成績を残し、多くの選手や指導者を輩出している。「スポーツを科学する」。これこそ嘉納の一大遺産であろう。ちなみに名選手・名監督を輩出している同大サッカー部の指導理念は<「良き選手」「良きチーム」「良き指導者」たれ!>である。