気象大学校(柏市内、晩年岡田が教鞭をとった)

官僚主義や技術者冷遇と戦う

岡田は気象台という公的機関の長(トップ)だったが、官僚組織に伴う権威主義を含めたその制度に終生批判的であった。明治政府以来の中央省庁をおおう弊風や形式主義(お役所仕事)さらには非能率等、全てに我慢ならなかった。官僚制度が生み出す無責任な対応や腐敗の源泉を嫌った。中でも、技術系職員に対する処遇が不当な場合が多いこと、それも法科系官吏の人を風下に立たせずにおかない傲慢ぶりを博士はしばしば批判した。地方測候所の職員の地位、待遇が低いことも岡田の悩みだった。後年も「技術家は惨々」との随想には、測候所職員を前に空威張りするばかりの地方役人を、戯画化して描き、法科万能の弊風を嘆いている。

清廉を尊ぶ彼には、中央省庁の官僚などの公金乱用などは許しがたいことだったに違いない。薩長藩閥政府以来の公金乱用と、住民・農民への苦役の強制、義務兵役制による生命の収奪は、近代日本政治の著しい特徴である。こうした官僚に対する博士がもっていた抜きがたい違和感は、自らは中央気象台長という、その分野では最高位にありながら、職を辞する最後まで軍部に従おうとしなかった体制への反骨精神に端的に現れている。これは一体何から培われたものであったのか。

「岡田武松伝」の筆者、須田瀧雄は出自に基づく庶民性によるものとの見解を示している。岡田が生まれ育った布佐町は利根川べりの半農半商の町であり、江戸時代から利根川水運の中継地として繁栄した。はるかに筑波山を仰ぎ、自然も豊かであった。が、一方で、水害に繰り返し襲われ生命財産を奪われた。庶民の塗炭の苦しみを身に染みて感じていたのである。

旧制一高から東京帝国大学物理学科に進学した岡田は、同じ学歴コースをたどった布佐町に縁戚のある友人がいた。民俗学者として後世名を成す柳田国男である。柳田の実兄は同町内で開業医を営み、柳田にとっては親代わりであった。一高時代に二人は筑波山から常総(現茨城県)、水郷一帯を巡る小旅行を試みたりする仲の善さであった。だが友情が晩年まで続いたかどうかは確認できない。

博士の人格と意志は、名利を求めることなど一切なく、ひたすら理想とする気象事業の実現や気象研究の進展に全生涯を燃焼し尽くした。「気象学の父」岡田は、中央気象台長を退官した後、郷里布佐町に移り住む。請われるままに柏市の気象技術官養成所(現気象大学校)で講義を続け、若い気象人の教育に当たった。台長時代からの口癖として「人材が第一だ」と語ったと伝えられている。

彼は布施町の自宅内に児童文庫を開設した。私設図書館である。母校の布佐小学校、中学校で入学式や卒業式などの際には必ず姿を見せ、壇上から笑顔をつくり分かりやすい言葉で語りかけた。学問を愛し、人を愛し、軍国主義を嫌い、故郷を愛した博士には、温厚な人格の中にも凛然とした気迫が貫かれている。昭和31年(1956)没、享年82歳。

参考文献:「岡田武松伝」(須田瀧雄)、「寸描 岡田武松博士」(馬渡巌)、気象大学校資料、我孫子市教育委員会資料、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)