ネット情報を規制する動きにはどのような意味があるのか(イメージ:写真AC)

ネット情報の歴史的変遷から考える

前回は情報環境の変化を述べたが、今回はその主役であるネット情報の規制の実態に関して語りたい。

昨年の兵庫県知事選挙以降、日本国内ではネット情報を規制すべしという論が高まっている。一方で米国などグローバル社会では規制を緩めるというまったく逆の方向に向かっている。この違いは何を示しているのだろうか。

ネット情報規制に関して日本の動きは米国などと正反対(イメージ:写真AC)

ネット情報の歴史的変遷(といってもわずか四半世紀ほどではあるが)をたどっていけば、すでに一定の決着はついており、自由に発信できるネットの自由度を高めようとするのは当然だと筆者は感じている。しかし日本で起きているのは、その自由を抑えようとする動きだ。

ある意味、今まで情報発信を独占していたマスメディアと互恵関係にあった社会構造が抵抗勢力となって最後の抵抗を強めているように映る。そうすると、大まかには次の3つの決着以外を想定できない。

➊既得権益側が情報環境の変化を受け入れ、自らも構造改革に着手し共存する
➋既得権益側が受け入れず、新たな環境も既得権益側統制下に置く
➌既得権益側が受け入れず、新たな情報環境が主導する秩序が完成する

このうち➋は規制を強めた場合の到着点であり、まさに専制主義国家における環境と同じではないのか。筆者はこれを最悪のシナリオと感じている。

➌に関しては、いわゆる情報権力における政権交代を意味するのだろうが、自由を勝ち取るといってもそこには相当な反動が予測されるので、望ましいとは思えない。やはり、ハッピーストーリーは➊と思っている。

間違えないでいただきたいのが、既得権益側の判断を適切な方向に向かわせるのは、自由な情報発信を望む多くの声であるということだ。つまり、今までサイレントマジョリティーであった民意の表出以外にないだろう。自由にともなう覚悟を持った個人や企業の行動が、民主主義の決める方向性となって社会を動かすのである。

情報環境が歴史的転換点にあることがあまり認識されていない(イメージ:写真AC)

それほど、情報環境は大きな歴史的転換点にある。だが、そうした状況にあること自体、世間ではあまり認識されていないのが実態であろう。それが問題なのだ。筆者はネット黎明期からこの情報環境に少なからず関わってきたので、その経験から、今起きている事象をマクロ的な視点で解明していきたい。