2018/09/10
安心、それが最大の敵だ
<文学に表現された湖水(1)、和歌>
琵琶湖は、古来日本独自の言語芸術である俳句や短歌に詠われて来た。
さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな
(平薩摩守忠教(たいらのさつまのかみただのり、通常は忠度)、「平家物語」の「忠教都落(みやこおち)」)
淡海(おうみ)の海(うみ) 夕波千鳥(ゆうなみちどり) 汝(な)が鳴けば情(こころ)もしぬに 古(いにしえ)思ほゆ(柿本人麻呂 「万葉集」巻三)
琵琶湖を詠った和歌2首である。代表的歌人による最高の名歌である。ここでは忠教の和歌をとりあげる。木曽義仲ら源氏の追撃により、都落ちを決意した忠教は、歌壇の最高権威である藤原俊成(しゅんぜい)を密かに訪ねて別れを告げ、遺作となる巻物(和歌集)を手渡す。『平家物語』の「忠教都落」から一部引用する。(原文のママ)
「三位(さんみ、俊成をさす)是をあけて見て『かかる忘れがたみを給(たまわり)おき候ぬる上は、ゆめゆめ粗略を存ずまじう候。御疑(うたがい)あるべからず。さても唯今の御わたりこそ、情(なさけ)もすぐれてふかう、哀(あわれ)もことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ』と給へば、薩摩守悦んで、『今は西海(さいかい)の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばされせ。浮世に思いおく事候はず。さらばいとま申て』とて、馬にいち乗り、甲(かぶと)の緒をしめ、西にさいてぞあゆませ給ふ。三位うしろを遥に見おくって、たたれたれば、忠教の声とおぼしくて、『前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳(ルビはす)』とたからかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残をしうおぼえて、涙をおさへてそ入給ふ。
其後(そののち)、世しづまって、千載集(せんざいしゅう)を撰ぜられけるに、忠教のありしあり様、言ひおきしことの葉、今更(いまさら)思ひ出でて哀也ければ、彼(かの)巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれ共、勅勘(ちょっかん)の人(天子から咎めを受けた人)なれば、名字をばあらはされず、故郷花という題にてよまれたりける歌一首ぞ、「読人知らず」と入られける。
さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな
(意訳:さざ波が打ち寄せる志賀の都は荒れ果ててしまったが、長等山の桜だけは昔ながらに美しい花を咲かせていることよ)
其身(そのみ)、朝敵となりし上は、子細(しさい)に及ばずと言ひながら、うらめしかりし事ども也」。忠教は一ノ谷の戦で戦死する。
◇
江戸初期、諸国を漫遊する水戸藩黄門・水戸光圀は琵琶湖に立ち寄って詠った。
音ばかり よするや鳰(にお)の 浦波も 霞にこもる あけぼのの空
「常山詠草」所収。琵琶湖のことを歌語で「鳰のうみ」といった。これは「湖上霞」という題詠。湖水の浦波も、のどかな春霞の中にこもってかすみ、静かな音だけが寄せている岸辺。優雅な王朝和歌の流れをくみ、調べはあくまでもおおらかである。(大岡信『新折々のうたI』参考)。
現代歌人・河野裕子は詠う。
たっぷりと 真水を抱きて しづもれる 昏(くら)き器を 近江と言えり
<文学に表現された湖水(2)、俳句>
琵琶湖を詠った俳人といえば、まず第一に俳聖松尾芭蕉をあげるのが礼儀であろう。「芭蕉句集」(日本古典文学大系、岩波書店)は、俳人松尾芭蕉(1644~94)の俳句約1000句を春夏秋冬の季語に分けて紹介し解説している。江戸期を代表する俳聖は近江国と琵琶湖をこよなく愛し、その亡骸(なきがら)を琵琶湖畔からわずかに内陸に入った義仲寺(ぎちゅうじ、現大津市馬場)に葬るよう遺言した(句の解釈は紙面の制限上でできないことをお断りしておく)。
<春>
大津絵の筆のはじめは何仏(なにほとけ)(元禄4年正月大津での吟)
行春を近江の人とおしみけり(元禄3年志賀辛崎での吟)
辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて(貞享2年大津での吟)
命二つの中に生たる櫻哉(かな)(貞享2年甲賀郡水口での吟)
四方より花吹入れてにほの波(元禄3年近江膳所での吟、「にほ」は水鳥の鳰・にお)
<夏>
海ははれてひえふりのこす五月哉(元禄元年琵琶湖畔での吟)
五月雨に鳰の浮巣を見に行かむ(貞享4年琵琶湖畔での吟)
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋(元禄元年瀬田での吟)
此の宿は水鶏(くいな)もしらぬ扉(とぼそ)かな(年次不詳大津での吟)
ほたる見や船頭酔ておぼつかな(元禄3年瀬田での吟)
世の夏や湖水にうかぶ波の上(元禄元年琵琶湖上での吟)
<秋>
石山のいしより白し秋のかぜ(元禄2年現石川県の山中での吟)
名月や海にむかへば七小町(元禄3年琵琶湖畔での吟)
名月はふたつ過ぎても瀬田の月(元禄4年瀬田での吟)
三井寺の門たたかばやけふの月(元禄4年義仲寺での吟)
鎖(じょう)あけて月さしいれよ浮み堂(元禄4年浮御堂での吟)
病む雁の夜さむに落て旅ね哉(元禄3年堅田での吟)
海士(あま)の屋は小海老(こえび)にまじるいとど哉(元禄3年堅田での吟)
<冬>
かくれけり師走の海のかいつぶり(元禄3年草津での吟)
少将のあまのはなしやしがの雪(元禄2年大津での吟)
比良みかみ雪指しわたせ鷺(さぎ)の橋(元禄3年大津での吟)
あられせば網代(あじろ)の氷魚(ひお)を煮て出さん(元禄2年膳所での吟)
石山の石にたばしるあられ哉(元禄2年か3年石山寺での吟)
百年(ももとせ)の気色(けしき)を庭の落葉哉(元禄4年彦根・明照寺での吟)
たふとがる涙やそめて散紅葉(ちるもみじ)(同前)
◇
近現代俳諧の指導者・正岡子規(1867~1902)は学生時代に琵琶湖を題材にした漢詩と俳句を詠っている。1890年(明治23年)8月29日、第一高等中学(現東大教養学部)学生・正岡子規(23歳)は同級生の友人夏目漱石(金之助)へ手紙を送った。
「(前略)小生飄然(ひょうぜん)と琵琶湖畔に天下り石山寺に参籠し幻住庵の跡に錫(しゃく)をとどむるなど大分俗骨を感じたるの感あり。
次瑶韻(じよういん)
琶湖携筆避紅塵 山紫水明憶美人 一夜天風吹我去 白雲皎月遇詩神
(琶湖筆を携えて紅塵を避け 山紫水明美人を憶う 一夜天風我を吹いて去り 白雲皎月詩神に遇う。<大意>筆を手に俗界を離れて琵琶湖に遊んだ。水と山の澄み切った風景は、心に美しい人を思い浮かばせる。ある夜のこと、天の風が僕を運び、白く輝く雲と月明かりの中で詩の神に出会わせてくれた)。
(中略)
月見がてら辛崎(からさき)へ行きたり。往復に得たる句の内、
くだけては 海一面の 月の影
むすぶ手に ひやりとしむる 水の月
名月や 湖水の中に 舟一つ」(「漱石・子規、往復書簡集」岩波文庫より)。
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