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1965(昭和40)年10月7日早朝、マリアナ諸島のアグリハン島付近で多数の日本漁船が台風に巻き込まれ、7隻が沈没または座礁して209人の尊い命が奪われてしまった。「マリアナ海域漁船集団遭難事件」または「マリアナ海難」と呼ばれるこの事故は、第2次世界大戦後のわが国における漁船遭難事故としては、361人が犠牲となった1954(昭和29)年5月のメイストームによる北海道近海での集団遭難(本連載2020年5月参照)に次ぐ大惨事である。今回は、この種の海難事故を未然に防ぐ観点から、この痛ましい事故の引き金となった台風の振る舞いについて解説する。

マリアナ諸島

図1に略地図を示す。小笠原諸島の南に位置するマリアナ諸島は、北緯13度付近から21度付近まで、南北約800キロメートルにわたって連なる弧状列島で、大小15ほどの島からなっている。かつては日本の委任統治領であった時代もあるが、現在は全域がアメリカ合衆国領である。

画像を拡大 図1. マリアナ海域略地図

アグリハン島はマリアナ諸島の北部にあり、南北約12キロメートル、東西約8キロメートルで、アグリガン島とも呼ばれる。最大標高965メートルの火山島であり、マリアナ諸島を含むミクロネシアで最も標高が高い。現在は無人島になっている。

マリアナ諸島近海は、かつお・まぐろの良い漁場であるが、この海域は台風が発達しやすい場所でもある。漁船だけでなく、どのような船であっても、特に台風シーズンにこの海域をめざす場合は、台風に関して神経質すぎるくらいの警戒が必要である。船は俊敏に行動できないからである。退避の遅れは命取りになりかねない。

台風第6529号

1965(昭和40)年台風第29号(6529号)の経路図を図2に示す。10月2日3時にマーシャル諸島で発生した熱帯低気圧は西北西へ進み、4日15時にグアム島の東約700キロメートルの海上で台風第29号となった。その後、台風は北西に進みながら発達し、特にマリアナ諸島にさしかかった5日夜から7日未明にかけて急激に発達した。この台風は、6日15時にマリアナ諸島北部に達した後、進行方向を北に変え、7日3時から18時間にわたって、中心気圧914ヘクトパスカル、最大風速70メートル/秒の猛烈な勢力となり、生涯を通じての最強勢力を示した。その後、台風は小笠原諸島の東の海上を北上し、9日15時以降は北北東に針路をとって日本の東海上を加速しながら進み、10日9時に千島列島の南東海上で温帯低気圧に変わり、さらに北東へ進んで、11日にはベーリング海に達した。

画像を拡大 図2. 1965年台風第29号の経路(気象庁の資料に加筆)。数字は日付、小円は各日午前9時の位置

当時、まだ気象衛星はなかった。広い太平洋上での島や船舶による観測値はごく少ないから、台風の位置や強度を決定する上で頼りになるのは、米軍による飛行機観測であった。図1の経路図の基になった各時刻の台風位置は、米軍の飛行機観測データを考慮して決定されている。また、この台風の生涯における最強勢力として記録されている最低中心気圧914ヘクトパスカル、最大風速70メートル/秒というデータも、米軍の観測機による台風中心貫通観測によって得られたものと思われる。

図3に、台風第6529号の中心気圧時系列グラフを示す。6時間ごとの中心気圧を結んだ折れ線グラフは、この台風の中心気圧の推移を示している。横軸の目盛線は各日午前9時を表す。折れ線グラフ上の小円は、台風になる前の期間を紺色、台風であった期間を水色、温帯低気圧に変わった後の期間を紫色で区別されている。このグラフで目を見張るのは、10月5日21時から7日3時にかけての中心気圧の急降下で、この30時間に72ヘクトパスカル下がった(986→914)。筆者は当時中学2年生で、NHKラジオの気象通報を聞いて天気図を作成することを日課としていたが、台風の中心気圧があまりにも急激に低くなったことに驚いた。そして間もなく、漁船の大量遭難のニュースを聞いたのである。

画像を拡大 図3. 1965年台風第29号の中心気圧時系列グラフ( webページ「デジタル台風」より)