無差別に徹底検査をして本当に「安心」は得られるのか(写真:写真AC)

徹底PCR検査がなぜ感染拡大につながったのか。このことを考察する前に「安全第一」から「安全安心」へと推移した功罪について語りたい。

安全安心とは

安全も安心も必要だが(写真:写真AC)

どれだけ科学的に「安全」とされていても、時として人は不安を感じる。ある意味、人間心理としては仕方がないだろう。「安心」できない環境では、人は健全な活動を行えない。従って「安全」だけでなく「安心」も求められるのである。

この「安心」は、「安全」を確立したうえで、「安全」であることの情報を継続的に公開し説明を尽くして納得を得ることで達成できる。しかし、人間心理であるがゆえ、論理でなく感情に左右されるリスクも高い。

東京都の小池知事が就任した直後、豊洲新市場移転問題に待ったをかけたことは記憶に新しい。「安全だが安心ではない」という趣旨だった。結果は、移転時期を遅らせ、そのために多額の費用を浪費し、ほぼ何も変わらなかった。単に不安を煽っただけで何も生み出せなかったとする意見は多い。

安心を安全から切り離し、感情論のみで語ると、冷静な判断ができなくなる恐れが(写真:写真AC)

この問題は「安心」を「安全」と完全に切り離し、100%感情論で語ったことが大きな誤りなのだ。もちろん目的はほかにあって、取った手段に過ぎないかもしれないが、感情論による「安心」を「安全」を無視して語る悪しき前例となり、手段として定着させてしまった。

この感情論の不安状態では、藁をもつかみたい心理で、誤った「安心」であろうとも、冷静な判断ができずに、藁をつかんでしまう。この誤った「安心」が大きな問題だと、筆者は考えている。