東日本大震災で過酷な救助活動にあたった消防士の中には、PTSDに苦しむ人も(写真は岩手県釜石市、出典:Wikipedia)

救済者側のPTSD

しかしながら私の関心は、東日本大震災やその後の国内を襲った自然災害での救済者側(国・地方自治体・赤十字などの公的機関が大半)の職員が抱えたPTSDの問題にもある。この問題は被災者に比べて等閑視されてように思えてならないが、深刻な課題であることには変わらない。

取材を続けるうちに、被災現場で行方不明者の捜索や遺体の確保にあたった陸上自衛官、警察官、自治体職員、消防士らの一部が心の傷から立ち直れないことを知った。大津波により壊滅的被害を受けた石巻市を被災から半年後に訪ねた際、石巻地区広域行政事務組合消防団・消防長D氏に面会を求め、隊員のストレス障害や対応策についてうかがった。

D消防長は「今回の大震災を『想定外』」とは考えていない。起こり得る地震であった」とした上で、次のように述べた。

・宮城県では海岸沿いに7つの消防組織がある。沿岸部合計で約1万1000人が死亡・行方不明。うち石巻広域行政の消防管内では約5400人の死亡・行方不明となった。
・津波が被害のすべてだった。地震だけだったら倒壊家屋もほとんど無く、ここまで大きな被害にならなかった。津波が救助活動の手足を奪った。津波に対しての力不足を露呈してしまった。
・地震・津波発生後、390人の職員のうち非番の職員も参集し、被災の当日から全員で救助活動に入った。
・我々の救助はがれきの山などに阻まれて普段の1割も活動できなかったと思う。残念でならない。
・我々はいかなる事故や事件でも被害者を救助しなければならない。泥まみれの遺体は次々にトラックに積み日赤病院に搬送した。
・当広域消防では6名の殉職者を出した。殉死は発災後4日目で明らかになった。

このように振り返った上で、消防署員の心的障害について語った。

・震災後、隊員のうち30人が個別相談(カウンセリング)を受けた。3分の1の職員が涙を流していた。「現場を思い出したくない」との声もあった。
・PTSDに陥った職員が数人いた。彼らは発災から1週間後に発症した。若手の隊員ばかりだった。個別面談すると「無残な遺体を思い出すと現場に行く勇気が出ない」「救出できなかった被害者を思い出すと無念でたまらない」「この仕事は自分には向かない。退職したい」などとうなだれて語った。
・重症と思われる者については、東北大学医学部ケアセンターで個別に相談するよう促した。総務省でもサポートチームを派遣しており個別相談できた。
・悲惨な体験をしたことは、なかなか忘れられない。特に若い職員は我々が何年も掛けて体験したことを、今回の大震災で一度に体験することとなった。

D氏は最後に語った。
「消防署では地獄のような体験をした職員を一人で悩ませないように努めている。無残な遺体を見たり運んだりした隊員に対しては、その思い・感情をチームで共有しカバーしあっている。哀れな遺体はなかなか正面から見られないが、失礼ではあるが『1つの物として見るしかない』と教えている。また『地域で何かがあればすぐ救助に行くのが、自治体消防の役目である。警察・自衛隊もいるが初動が遅い。地元にすぐ救助に行けるのは我々である』とも言い聞かせ職務にプライドを持たせるようにしている」。

<一人で悩ませない>、<職務にプライドを>。D氏の言葉が忘れられない。

(つづく)