東京・墨田区役所にある勝海舟像(出典:Flicker)

勝の深謀遠慮

海舟は平和裏に江戸城を明け渡す談判を進めながらも、決裂の時の用意に奇想天外な作戦計画を練っていた。新政府軍が江戸に武力進攻してきた際には、江戸の火消し、とび職、博徒などを総動員し、江戸八百八町に火を放って西軍を焚殺(ふんさつ)するゲリラ戦である。

勝・西郷の正式会談の行われる直前、西郷の命を受けて参謀・木梨勝一郎が横浜のイギリス公使館に公使パークスを訪ね、イギリスの助力を請い、負傷者を手当てするための病院を作りたい旨を申し入れた。パークスの回答は西郷にとって青天の霹靂だった。

「前将軍慶喜は降伏の意思を明らかにしているという。何のための進軍なのか。降参した敵を攻撃するとは何事か。世に例のないことである。そのような無法が行われるならば、我々は官軍の暴挙に備えて、居留民保護のため軍隊を用意するほかない。これが国際法である」。

公使の言葉に愕然となった西郷は、国際社会の中の日本を意識することになる。パークスの発言の背後に海舟の影を感じる。国内戦を開始することは列強の意思に反するのか、西郷は国際法という厚い壁に突き当たった。勝との会談を前に、西郷が江戸総攻撃を放棄していたとされるのは、この時のショックによるとの説がある。勝の深謀遠慮はまだある。勝は、万が一の場合に備え、慶喜をイギリス軍艦に避難させ安全な所に移動させる。パークスの了承も取り付けてある。移動の先が遠くロンドンだったとの説もある。幕府に批判的だったイギリス公使まで味方にひきつける。

「氷川清話」(勝海舟)から引用する。海舟は14日の土壇場の西郷との会談を回顧する。「当日おれは、羽織袴で馬に騎って、従者を一人連れたばかりで、薩摩藩邸へ出掛けた。まず一室に案内せられて、しばらく待っていると、西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引き切り下駄をはいて、例の熊次郎という忠僕を従え、平気な顔で出て来て、これは遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通った。その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思われなかった」。西郷は勝を信用してすべてに了解する意向を示した。おかげで江戸百万の市民の生命と財産は救われた。

「もしこれが(西郷ではなく)他人であったら、いや貴様の言う事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろ喧しく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたのには、おれも感心した」。

肝胆相照らす。西郷は次の間に控えて談判の成り行きを窺っていた田村新八と中村半次郎を呼び入れ、海舟の面前で明日に迫った江戸城進撃中止を命じる。劇的な幕切れである。勝が会談をした蔵屋敷を出ようとしたのは日が暮れる刻限であった。西郷は勝を門まで送った。4月11日江戸城が明け渡された。

(続く)