利根川治水のため1958年に竣工した群馬県みなかみ町にある藤原ダム(出典:Wikipedia)

利根川や荒川の治水進む

16日午前0時20分、深夜に悪夢が現実のものとなった。最悪の事態が発生した。利根川右岸の埼玉県東村と原道村(いずれも現加須市)の村境(新川通)の堤防が約340mにわたって大轟音と共に決壊した。堤防を切った濁流は帯状に広がりながら、埼玉県東部低地をかつての利根川の流路を慕うように中川沿いをしぶきをあげて流下した。

大人の背丈をゆうに超える壁のような濁流は栗橋町、幸手町、杉戸町(いずれも当時)などの町や村を吞み込んだ。荒川も激流の攻撃に耐えられず堤防が各地で切れた。埼玉県東部は泥海と化し、稲が豊かに実った田畑や桑畑は水底に消えた。4日後、勢いを増した濁流は東京都と埼玉県の境界を流れる大場川の桜堤を切って、ついに東京都東部低地(葛飾区、足立区、江戸川区など)を襲い水没させた。1910年以来の「首都水没」である。

カスリーン台風のもたらした被害は、関東・東北地方を中心に東日本全体におよんだ。関東地方だけでも死者行方不明者が1200人を超えた。このうち特に被害が甚大だったのは群馬県と埼玉県であった。お年寄り、女性、幼児の犠牲者が目立った。

敗戦の廃墟から立ち上がろうとした国民は自然の猛威により再度奈落の底に突き落とされた。農家は実りの秋にすべてを失った。学校、商店、町工場も全滅である。9月中旬とはいえ台風一過の秋空から降り注ぐ日差しは残暑のように厳しく、被災地には異臭が漂い、遺体や濁流に浸かった稲穂や野菜を腐敗させた。

国土交通省によれば、カスリーン台風の被害総額を今日的に換算すると、国家予算のざっと5分の1にあたる20兆円を上回るという。カスリーン台風に続いて翌1948年にはアイオン台風が東日本を襲い、次いで1949年にはキティ台風が襲来した。敗戦国は毎年のように大水害に見舞われた。

政府は利根川と荒川の治水対策を根本から見直すことになった。群馬県と栃木県の山岳部に治水と利水を目的にした多目的ダムが次々につくられた。川幅を大きく広げ、堤防を強固にし、遊水地を造成した。スーパー堤防も造られた。<生き地獄>から70年。利根川の堤防はその後切れていない。だが異常気象が続く。油断は禁物である。(参考文献:拙書「洪水、天ニ漫(ミ)ツ カスリーン台風の豪雨・関東平野をのみ込む」講談社、「報道写真集 カスリーン台風」カスリーン台風写真集刊行委員会・事務局埼玉新聞社など)。

(続く)