運河の難工事に挑んだ、パナマ時代の青山士

関東大震災にも耐えた水門

青山は1878年9月、静岡県豊田郡中泉村(現磐田市中泉)に生まれ、1963年3月、84歳で生涯を閉じた。その傑出した生涯をスケッチしたい。勉学に励むため東京に出て府立尋常中学(現都立日比谷高校、以下いずれも旧制)から第一高等学校を経て東京帝大土木工学科に進んだ。高校時代に宿命の出会いがあった。無教会主義キリスト教指導者内村鑑三との巡り合いである。内村の講演を聞いた青年は、内村門下生になることを決意しキリスト教徒の道を歩むことになる。

「私はこの世を私が生まれたときよりも、より良くして残したい」。内村が講演で引用したイギリスの天文学者ジョン・ハーシェルの言葉に人生の道を模索していた青年は深い感銘を受けた。彼は内村の教えを終生心の柱とした。それはキリスト教徒としての「民衆への愛と奉仕」「社会正義」「非戦思想」である。内村の助言もあって土木工学を学んだ。内村は大学生青山の人格を高く評価し「青山君のような人物が土木技師になれば、賄賂などの不正や官僚の横暴は絶たれる」と語った。

内村と札幌農学校(現北海道大)同期のクリスチャンで、近代日本土木界を代表する指導者である主任教授・廣井勇の助言から「世界最大の土木工学的実験」と呼ばれたパナマ運河の開削工事に参加するため単身渡米する。1903年8月のことで、青山は大学を卒業したばかりの25歳だった。

青山はマラリアや黄熱病が蔓延(まんえん)する異郷パナマの劣悪な自然環境の中で、唯一の日本人技師として難工事に身を投じた。2年余りの間、熱帯雨林のジャングルの中で測量・地質調査を行った。その後、実力と勤勉さが認められ、運河最大のガトゥン閘門(こうもん)や世界最大の人造湖とされたガトゥン湖のダム洪水吐(こうずいばき)の設計施工などを任される。

青山が設計施工を手掛けたガトゥン閘門の繋船壁や洪水吐は1世紀を越えた今日も立派に「現役」である。アメリカ技術陣の彼に対する評価は極めて高く、公文書には「Excellent」(最優秀)と記されている。青山は日米関係の緊迫にともない、半年後に迫った運河完成を見ることなく帰国する。パナマ滞在7年半。外国人技師の限界であった。33歳。青山の青春は終わった。
                  
1910年秋、関東地方は超大型の台風に直撃された。利根川と荒川で堤防が決壊し、東京下町は泥海に没した。800人を超える犠牲者が出た。帝都の壊滅的な被災状況に内務省が動き出し、「荒ぶる川」荒川の大洪水をいち早く東京湾に流し込む放水路を建設することになった。青山は帰国後技量が高く買われて内務省に採用され、荒川放水路開削工事を指揮した。

同放水路建設計画は、500万人を越える流域住民救済の最大級の国家プロジェクトであった。計画では、宿場町千住(東京・足立区)を分断しないように東側に弓なりに大きく迂回して掘削されることになった。全長22kmの放水路の要が今日も記念碑的に残る岩淵水門(赤水門)である。同水門の設計施工は放水路工事の中で最難関であった。底なしの軟弱地盤のためである。青山はパナマ運河での閘門建設の経験を生かして、国内ではまだ実験段階であった鉄筋コンクリート工法を導入した。

開閉自在な岩淵水門は、1923年9月の関東大震災(マグニチュード7.9)でもびくともせず、戦後の地盤沈下にも耐えた。水門近くに立つ完成記念碑は青山の精神を伝えて余りある。「此(こ)の工事に完成にあたり多大なる犠牲と労とを払いたる我等の仲間を記憶せん為に」(原文カタカナ)。現場で共に汗を流した仲間たる労働者たちをたたえたのである。放水路は水害常襲地だった東京東部低地を洪水の恐怖から解放した。(参考資料:拙書「技師青山士 その精神の軌跡」鹿島出版会)

(続く)

(※編集部注 1P目のエスペラント語と日本語で書かれた碑文について、「国内唯一の」を取り、文章を訂正いたしました。2017年4月6日)