死者1000人以上か

昭和東南海地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1223人の死者・行方不明者を出したとされている。死者数は重複があり、916人とする説もある。これは、太平洋戦争中でもあり、戸籍などの謄本が津波により消失しているため現在でも正確な実数は把握できない。行政機能がまひしたため、死亡届を出さずに、現在に至っている例も散在する。

この地震によって関東大震災のような大規模な火災は発生しなかった。これは建物倒壊が比較的少なかったこと、発震時刻が昼過ぎであり火を使っている場所が少なかったこと、天候が穏やかで風が弱かったこと、更に戦時中でいつ本土空襲が起きてもおかしくない状況であり、人々の緊張が高まっていたことなどが要因として挙げられている。
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半田市の中島飛行機の山方工場、名古屋市南区の三菱重工の道徳飛行機工場はこの地震によって倒壊し、それぞれ死者1301人、60人の被害を出した。この二つの工場は紡績工場を買収して軍需に転用したものであった。飛行機工場としては狭く、間仕切りや柱をのこぎりで引いて取り除くなどして空間を確保していた。耐震性を無視した改装工事が倒壊の原因になったとされる。
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「戦争と天災のあいだ」(保坂正康・姜尚中対談、講談社)での保坂正康氏の発言に注目したい。自然災害時においても、軍部が厳重な情報統制をとるという横暴ぶりを確認したい。

保坂氏:昭和19年12月の東南海地震と昭和20年1月の三河地震、これについてはほとんど語られることがありません。名古屋では今となってはこの地震を知らない人が多くなりました。
東南海地震は紀伊半島東部の沖合が震源地で、三重県、愛知県、静岡県に津波が襲ってきています。推定では1200人ぐらいの方が死亡・行方不明になり、3000人近くが負傷したと言いますが、正確な数字はいまなお把握されていません。
三河地震も記録がほとんど残ってないので、詳しいことは分かりません。もちろん報道もほとんどされません。わずかに数行の記事は出ましたけれども、被害は大したことはないと書いてある。愛知県は飛行機などの軍需生産の中心地でしたから、そこの被害状況が敵国(アメリカなど)や自国民に知られることを恐れて、軍部が厳重な情報統制を敷いたんですね。
2つの地震は太平洋戦争の末期の状態に発生しました。もはや日本が勝利を得られる状況にない。2つ地震が続いた昭和19年12月から翌年1月は、B29・70機による初の名古屋空襲や米軍のフィリピン・ルソン島上陸があり、ヨーロッパではソ連軍がワルシャワを解放した。小磯国昭首相は施政方針演説で「国体護持」を強調していたが、時は確実に敗戦に近づいていた。19年10月からは特攻隊が出撃し始めています。
戦局が悪化している中で、地震の報道などされると国民の士気が下がるというのが情報統制、隠蔽の理由でしょう。
しかし、名古屋地方気象台の職員や名古屋帝国大学(現名古屋大学)の研究者などが現地に入ります。当然ですよね。やはり調べなければいけませんから。するとどういうことが起こるか。
憲兵隊がすっ飛んできて、彼らを捕まえた。しかも「よけいなことをするな。お前たちはスパイか」と言って拷問をかけた。
それを知った県知事が憲兵隊に、「スパイじゃない。調査に行ったんだ」と言って抗議すると、「調査なんかする必要はない」と言って隠蔽されたらしい。
こうしたことは、昭和50年代に入って、ようやく少しずつ明らかになってきました。名古屋大学の先生や「中日新聞」などが資料を集め、調査を始めたからですね。報告書も出しています。
余談ですが、世界各国には地震計がありますから、日本に大地震が発生したことはみんな知っていた。アメリカの新聞のなかには正確な記事を載せたものもあります。ちゃんと「日本の中部で大地震」との見出し付きです。