福島第一原発への放水作業(出典:Wikipedia)

阪神淡路大震災と比べ大幅に向上した災害対応の1つに消防機関の活動が挙げられる。平成7年度に創設された緊急消防援助隊には平成22年4月時点で全国4264隊が登録されており、東日本大震災では、発災直後から全国の緊急消防援助隊が迅速に被災地に入り、人命救助活動などに当たった。東京消防庁では、都内の災害対応や、千葉・静岡などへの応援部隊の派遣に追われる中、緊急消防援助隊を東北方面に出動させ、さらに福島第一原発の冷却作業にもあたるなど大きな任務を果たした。緊急消防援助隊の東京都隊総隊長を務め、3月31日に東京消防庁を退職した佐藤康雄前警防部長に東日本大震災発生後の東京消防庁の対応と、総隊長としての任務について振り返っていただいた。

編集部注:「リスク対策.com」本誌2011年9月25日号(Vol.27)掲載の記事を、Web記事として再掲したものです(2017年3月10日)。役職などは当時のままです。

東京消防庁の震災対応は2月22日のニュージーランドで発生したクライストチャーチ地震の時から始まっていた。東京消防庁では、国際緊急援助隊を第3次隊まで派遣し、3月12日にはその最後の部隊が日本へ帰ってくることになっていた。 

3月11日、佐藤氏は、庁舎の自室で、クライストチャーチ地震以降、慌ただしく仕事に追われた2週間を振り返りながら、派遣隊の帰国を迎える準備をしていた。その矢先、東日本大震災が発生した。 

庁舎の3階にある佐藤氏のいた警防部長室も大きく揺れた。初期の情報では、マグニチュードが7.9ということだったが、それが時間を追うごとに引き上げられ、正確な情報がつかみ難い状況が続いた。確実に分かっていたことは宮城県で震度7の被害があったということ。佐藤氏は「東北がかなりやられたという認識だけは発災直後から持っていた」と振り返る。

発災から50分後、総務省消防庁長官から東京消防庁に対し、緊急消防援助隊を東北に派遣するよう要請があった。 しかし、東京もかなりの被害を受けていて、すぐに応援を派遣できるような状況ではなかった。 

都内では地震による火災が34件発生。119番通報も急激に増えた。平日なら1日で2800件程度の119番通報があるのが、この日は1日に1万件を超えた。都内では千代田区の九段会館で天井が落下し、町田市小山ヶ丘では大型駐車場のスロープが崩壊し老夫婦の車が挟まれるなど、5件の救助出動があった。このほか、緊急確認が必要なものが42件あり、最終的に7人が命を落とした。 

これほどの被害の中で、応援部隊を派遣してしまっていいのか、佐藤氏は、「判断は難しかった」と打ち明ける。 それでも、発災から2時間弱の午後4時30分の時点で、宮城県の陸前高田市や気仙沼市に向け、一次派遣隊14隊63名を送り出した。その後、同日夜8時には25隊104名、翌朝3時には60隊280名を送り、発災から半日以内で合計101隊、459名を派遣した。

■訓練の成果

迅速に緊急消防援助隊を派遣できた理由は、訓練の積み重ねにより早期に被害状況を把握できる体制ができていたことが大きいと佐藤氏は強調する。 

前年の11月20、21日の2日間、東京都および関東9県では、緊急消防援助隊関東ブロックの合同訓練を実施した。全国の各ブロックが毎年1回行っているもので、昨年は東京が幹事だった。東京消防庁の職員1万8000人と周辺地域から2000人の計2万人が参加した大規模な実動訓練となった。 

普通、これほどの規模になると、綿密な打ち合わせのもと、シナリオに基づいて各隊が正しく行動できるかを確認する訓練になるが、この時は、より実践的な内容とするため、シナリオを一切公表せずにブラインド型で行った。また、従来こうした訓練は半日で終えていたが、この時は24時間連続で行うことを試みた。 

徹底した訓練を行った理由は、それまでの体制では大規模災害には対応できないという危機感が消防総監はじめ東京消防庁幹部の頭の中にあったからだ。 
「私が昨年4月に警防部長になった翌月に訓練を行った時には十全な対応ができませんでした。何がダメかというと、本当に大切な情報が何か、情報のトリアージができてなかったのです」。 

東京全域の各部隊から多くの情報が寄せられてくるが、その寄せられてきた情報の中で、今、どこが燃えているのか、どこで救助が必要なのか、どこで部隊が足りているのか、不足しているのかが即座に把握できる状態になっていなかったと佐藤氏は指摘する。 

これを改善するため、東京消防庁では、毎週1回、訓練を行い、他の9県にも協力してもらい、各県の指揮隊を含めた小規模な合同訓練も実施した。その結果、11月の大規模訓練では迅速な状況把握ができ、訓練は見事成功した。 
「東日本大震災で2時間弱で派遣できたということは、その間に東京消防庁圏内の災害状況と部隊の出動状況がすべで把握できたということ。これは訓練の成果です」(佐藤氏)。 

■石油コンビナート火災への対応

写真を拡大上:福島第一原発での冷却活動(東京消防庁)下:福島第一原発冷却の任務を終え、記者会見にのぞむ佐藤氏(中央)(東京消防庁)

緊急消防援助隊の派遣後も東京消防庁の震災対応は厳しい状態が続いた。 

夕方には、千葉県でコンビナート火災が発生した。東京消防庁では、毎分2万リットルの放水能力を持つ消防艇「みやこどり」を千葉県へ派遣した。応援要請があったわけではないが、もしこのまま放っておいて原油が海に流れ出てしまうと東京湾一体が火災になるとの判断で、応援協定に基づく派遣の決断をし、その後に緊急消防援助隊に切り替えられたという。

千葉からも大型船が1艇来て、海上保安庁の船と合わせて3艇で延焼防止にあたった。数日後、佐藤氏が千葉市消防本部から聞いた話では、今回はガスタンクの爆発であり、原油タンクの直前で火災は食い止められていたとのこと。判断の速さが奏功した。