ライン川の歴史を伝える古城

「上ライン」:学術の都バーゼルと大運河

ボーデン湖に臨む歴史の町コンスタンツ(Konstanz)からに西に向って流れ下ってきたライン河は、バーゼルでほぼ直角に流れを変えて北(北海)に向う。今から100万年以上も前の新生代第三紀の終わり頃までは、ライン河はそのまま西に向って流れ続け、ローヌ川と合流して地中海に注いでいた。その後、現在のフランス・アルザス地方とドイツ・シュヴァルツヴァルト(黒い森)山地との間に巨大な陥没地帯(独仏国境地帯)が生じて、流れはその谷間に沿って北に転じることになった。

バーゼルは、スイスでチューリッヒ(Zurich)に次いで2番目に大きな都会であり、同時に国際河川ライン川の特徴をよく示した港町でもある。化学・薬品工業でよく知られる。ここから北海とライン川の接点にあるロッテルダム(ユーロポート)まで約800kmの間を、2000t級の大型船舶で航行できる。バーゼルはその昔から山国スイスが持っている唯一の海への出口だ。ライン河の舟運がスイス経済に対して重要不可欠な役割を果たしている。ライン河畔に華麗な大聖堂(ミュンスター)がそびえる。

バーゼルは16世紀に人文主義の一大中心地となり、古代研究が盛んになった。その拠点がヨーロッパで最古とされるバーゼル大学であり、代表的学者がオランダ生れのエラスムスである。ライン河が大アルザス運河と分かれる地点は、スイス・フランス・ドイツの国境に接した内陸の港湾で、巨大な輸送船が発着を繰返している。ライン川博物館を訪ねた。中世から現代までの輸送船のモデルが数多く展示され、また洪水や河川改修の古文書類・文献も残されている。「戦前までは船員は高給が保証された憧れの職業だった」と館長は説明する。

ライン川はその昔から蛇行を繰り返し、網の目状に分流するので、沿岸にしばしば大洪水をもたらした。人々はライン河の岸辺を離れて、水害の心配の少ない高台を選んで城下町や村落を形成した。ライン川が乱流を繰返し続けては土地を有効に活用できない上に船舶の航行にも不便である。19世紀になってドイツにより約70年がかりで一大治水工事が進められた。蛇行、分流していたライン川を一本にまとめて直線河道にし、強固な堤防を築いた。これで大洪水の心配がほとんどなくなり、氾濫原や河跡湖として放置されていた土地を農業用に活用できるようになり、船の航行も便利になって万事がうまく行ったかに見えた。近代河川工学の勝利かと思えた。

だが直線河道となったライン川は流れが激しくなり、川床が削られて平均水位が5~7mも低くなった。それに伴って地下水位が下がってしまった。流域平野では乾燥が目立って増え、林野は枯れて、農作物や牧草は育ちが極端に悪くなった。一大治水事業によって農耕地の面積は増えたが、農業生産高は逆に減ってしまった。河床が深くえぐられて土砂の中から岩礁が水面から頭を出し、減水期には船の航行が危ぶまれるまでになった。

これとは別に、1840年代からバーゼルとアルザス地方の古都ストラスブール(Strasbourg)の120kmの区間に本流に並行して運河を開削する計画案が台頭した。この区間は、プロイセン(現ドイツ)とフランスの国境になっており利害調整が極めて難しく、計画案の実現は無理とされた。ところが1871年、フランスが普仏戦争で敗北を喫し、アルザス地方がプロイセンに割譲されてライン河の両岸がともにプロイセン領地になったため、並行運河が実現する運びとなった。これが現在の大アルザス運河(Grand Canal d’Alsace)の前身である。第二次世界大戦以降、フランス・ドイツの協調時代に入り、大運河は根本的な手直しが行われた。その大原則は、ライン河の川水を大運河から再度本流に戻すことにあった。

バーゼルと、ストラスブールより下流にあるイッフェーハイムとの間に、7箇所にわたってライン河の本流に閘門(ロックゲート)が建設された。船は閘門によって水位がかさ上げされたライン河の本流を航行する。自然河川の運河化という手法が取り入れられた。1500t級の大型船舶が航行可能になった。この間には10カ所で水力発電所が設けられ、合計で年間に約83億kWhとの豊富な電力が得られるようになった。一方、大運河は年間約3万隻の船舶が通っている。ストラスブールで、古都のシンボルともいえる大聖堂(カテドラル)をはじめ中世の町を再現したプチ・フランス(小フランス)や運河それに運河に架かる屋根付橋などを見てまわった。