2018/10/22
安心、それが最大の敵だ
アメリカ人医師ヘボン
ここで日本の英学・医学・教育に大きな足跡を残したヘボンについて触れておきたい。医学博士ジェームズ・カーティス・ヘボンが安政6年(1859)日本に着任した時は、既に44歳の経験豊富な宣教師であり医師だった。(「ヘップバーン」が正しい発音に近いが、通例に従って「ヘボン」と記す)。神奈川(現横浜市内)の自宅近くに宗興寺を借受け医療設備を設置して貧困と病気に苦しむ人々の治療を始めた。1日に100~120人もの患者を診察し治療に当たった。次いで横浜で施療所を開設した。門人の岸田吟香(ぎんこう)に伝授して目薬を売出したり、歌舞伎俳優・沢村田之助の手術をして義足をつくるなど名医の評判を高めた。
キリスト教宣教師でもあるヘボンは近代科学、医学はもとより、教育界の開拓者と目された。早くも文久元年(1861)幕府から9人の青年の英語教育を委託され、彼らは6カ月間英学を学ぶため博士のもとに派遣された。
「1861年から62年に掛けて、江戸幕府は英学を通じて西洋の新しい知識を学ばせる目的で優秀な青年数名を派遣してきた。青年たちと私との人間関係はすこぶる友好的だった。やがて動乱が起こり、幕府は崩壊寸前という風雲急を告げる緊急事態となり、この青年たちは急遽江戸に呼び戻された。動乱に参加して命を失った者もいたが、新政府のもと、信頼と名誉ある地位を得た者もいた」(博士の追想。「ヘボン―同時代人の見た―」より)。
この俊才の中に大鳥圭介がいた。大村益次郎(軍政家、戊辰戦争では圭介の敵将)、林董(はやしただす、のちに外交官、戊辰戦争では圭介と共に戦う)、高橋是清(のちに首相)、沼間(ぬま)慎次郎(後に守一、東京府議会議長、言論人)らも教え子であった。一方で博士は和英辞書「和英語林集成」を編纂し刊行した。辞書に用いられたローマ字表記は「ヘボン式ローマ字」として普及した。明治20年(1887)、念願の聖書和訳も完成させた。クリスチャンの高等教育機関を開設し、これが後年明治学院大学となった。同校キャンパスにはヘボンの胸像が立つ。ヘボン夫人が開いた英学塾はフェリス女学院(横浜市中区)の起源である。蘭学一辺倒だった日本の洋学は、幕末動乱期になって英学の時代に入った。それはアメリカ・ペリー艦隊の浦賀来航がいかに衝撃的であったかを物語るものでもあった。
幕臣・大鳥圭介の才覚と洋学
蘭学者・大鳥圭介は、開明的君主として知られる薩摩藩主・島津斉彬の厚遇を受けるようになった。時には多額の御手当金を受けることもあった。薩摩藩士ではない彼が、通常ならばお目見えも叶わない斉彬と辱知(じょくち)の間柄になったのは、同藩が秀才青年たちに蘭学を習わせるために圭介の門に彼らを預けたことから始まった。若者の中には寺島宗則(後に外務大臣)、川本幸民(こうみん、のちに物理学者)などがいた。
蘭書・英書の専門書(化学、天文学、気象学、鉱山学、製紙法など)を彼らに翻訳させ、圭介が三田四国町(現東京都港区芝5丁目)の薩摩藩上屋敷に出向いてその内容を藩主に進講した。圭介自身はテクノロジー(工学系)専門書の翻訳をし、翻訳製本が完了するたびに斉彬に教授し進呈した。説明は明快であり、藩主は西洋の理工系の学問に関心を示すようになった。圭介は「学問があり、大藩の藩主でカネもあり、勢力もある」(圭介・自伝原稿)斉彬を敬愛し、また藩主も圭介の見識を評価していた。圭介はテクノクラート(高級技術官僚)の道を独力で拓(ひら)いていくのである。
薩摩藩の中屋敷は品川の海岸沿いの芝・田町(現東京都港区芝浦、JR田町駅付近)にあった。藩主斉彬は緊急の海防策として、芝の浜に藩独自の台場を構築し大砲を備えつけることを考案した。台場造営の設計施工から現場での指揮を命じられたのが圭介であった。彼の築城技術・港湾技術(今日の土木工学)の知識が遺憾なく発揮され、洋風の大型大砲が備えられた。薩摩藩主からの信頼は揺るがざるものになった。慶応元年(1865)12月、長男・富士太郎が誕生した。後に外交官(メキシコ大使など)、貴族院議員として活躍する。
◇
播州(現兵庫県西部)の田舎医者の息子にすぎない無位無官の圭介は、血を吐くような自己研鑽が実って尼崎藩士となって士分に取上げられ、次いで阿波徳島藩に取り立てられ、さらには兵法やテ土木技術の知識が評価されて幕府の代官・江川太郎左衛門の江川塾教授となった。士官教育を目指す講武所でも勝海舟らと共に青年の指導に当たり、同時に築城・砲術・戦術訓練などの翻訳にあたった。
幕府は瓦解寸前の瀬戸際まで攻め込まれ、地震・水害などの自然災害やコレラに襲われ夜盗・かっぱらいが横行する江戸の町民の動揺は甚だしかった。断末魔の叫びを上げていたと言える。幕府首脳は旧来の幕臣だけでは難局の打破は出来ないと判断し、人材を在野から幅広く採用することになった。慶応2年(1866)、圭介は洋学者らと共に幕臣に登用された。33歳。一躍、徳川幕府の直臣(じきしん)にまで登りつめた。50俵3人扶持の禄米が支給された。年に禄米50俵と家来3人分の扶持米が支給されるのは、旗本の中でも上位である。(1人扶持は年に1石8斗)。登用された者の中には、渋沢栄一(後に実業家・男爵)、渋沢成一郎(栄一の従兄弟、後に実業家)、天野八郎(後に彰義隊隊長)、近藤勇(後に新撰組隊長)、土方歳三(後に新撰組副長)などが含まれる。いずれも旗本(1万石未満の幕臣)の扱いである。
当初、圭介は幕府開成所(東京帝国大学前身)に招聘(しょうへい)され洋学教授に就任し、同時にイギリス・フランス・オランダの兵法書(軍事関連図書)の翻訳に従事した。次いで、彼は幕府陸軍の歩兵差図役頭取(さしずやくとうどり、現陸軍大尉)となり、さらに翌慶応3年(1867)1月に歩兵頭(2000石、現陸軍大佐)に抜擢され、同年3月には歩兵奉行(3000石、現陸軍少将)にまで昇進する。「三段跳び」ともいえるスピード昇進である。
幕府はフランスの陸軍士官ブリュネやカズノフら15人を招いて洋式軍隊訓練(士官養成)に取組むことになった。訓練場を神奈川の海岸沿いに広がる太田村(現横浜市中区日ノ出町、黄金町、初音町)の丘陵地に「太田陣屋」を造成し、開国論者の幕府重臣・小栗上野介忠順(ただまさ)が最高司令官となった。小栗を支えたのは、圭介をはじめ矢野次郎(後に高等商業学校(一橋大学前進)校長)、沼間慎次郎、益田孝(後に実業家、ヘボン塾出身)ら開明派の幕臣とフランス陸軍士官たちであった。彼らに前には雌雄を決する戊辰戦争が待っている。開国論者の小栗は西軍(新政府軍)の暴徒に斬首され、圭介は「敗軍の将」となるのである。
参考文献:「ジョン万次郎とその時代」「日本の歴史9」(朝日新聞社)、筑波大学附属図書館史料
■関連記事
「幕末・維新とメディア事情それに小栗忠順」
http://www.risktaisaku.com/articles/-/3746
「再説:幕末の幕府を支えた小栗上野介忠順」
http://www.risktaisaku.com/articles/-/7919
(つづく)
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