幕末群像~開明派の苦闘、江川太郎左衛門、ジョン万次郎、大鳥圭介~
激動の時代における近代化の旗手たちのジレンマ

高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
2018/10/22
安心、それが最大の敵だ
高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
本年は明治維新から150年。日本を震撼させたペリー率いるアメリカ東インド艦隊は、再来訪を予告して引上げたが、再びその威圧的姿を現したのは、幕府の予想より早く嘉永7年(1854)正月のことであった。ここに激動の幕末が幕を開ける。安政と年号が改まるのはこの年11月である。対応に苦慮した幕府首脳は、韮山代官・江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)にアメリカ側と交渉して侵入を阻止するように命じた。老中・阿部正弘を首班とする幕閣は開明派江川の才覚に期待して彼を勘定吟味役格に任じ、対米交渉に参画させた。江川はひそかに「切り札」を用意していた。
それが土佐(現高知県)生まれの漂流民・万次郎であった。中浜万次郎(通称、ジョン万次郎)は文政10年(1827)、土佐国幡多(はた)郡中ノ浜浦の漁民の家に生まれた。天保12年(1841)漁民仲間と出漁中に嵐にあい遭難した。14歳の春だった。アメリカ捕鯨船に救助され、アメリカ・東部マサチューセッツ州ニュー・ベッドフォードに渡り、船長ホイットフィールドの手厚い庇護の下で専門教育を受けた(それまで見習い漁師万次郎は正規教育を受ける機会は与えられなかった)。
彼は航海術を習得した一人前の船員に成長し、10年後に帰国を果たした。アメリカ海員の労働の世界に身を置いた彼は、全ての技量を自らの努力で獲得した。帰国の道を選択したのも自らの意思であった。乗り込んだ捕鯨船が琉球(現沖縄)の近海まで接近した時、自分の買い入れたボートに乗り移り上陸を遂げた。
◇
嘉永6年(1853)6月、江戸の土佐藩邸に幕府から1通の書状が届いた。「万次郎と申すもの、外国の様子等尋ね候儀も有るべく、当地へ呼寄せ置く事」(現代語表記とする。以下同じ)との督促状であった。アメリカ使節ペリーが、フィルモア大統領の国書を残して立ち去ってから、1週間が経っていた。
儒学者・大槻磐渓が林大学頭を通じて「土佐漂流人万次郎は頗(すこぶ)る天才之有る者」で「此の度の掛合役等に召し遣われ候はば、必ず穏便の取扱」が出来ると、幕府へ推薦した。磐渓は蘭学者大槻玄沢の次男で開国論者であり、林はペリー再来時の応接係を務める。万次郎が「頗る怜悧(れいり)にして国家の用となるべき者」との評判はすでに、薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)や長崎奉行・牧志摩守を通じて幕府老中らの耳に達していた。
10月14日、老中首座・阿部正弘は万次郎を呼寄せ、アメリカ事情を聴取した。万次郎は、阿部正弘、林大学頭、川路聖謨(としあきら)、江川太郎左衛門ら有力重臣が列座する中で、「共和政治州」が「北亜米利加の内三十度より五十度の間に有」り「西は北太平洋を隔て御国(注:日本)に相対」していることから始めて、アメリカの人情、風俗、政治、さらには大統領は「プレジデント」といい「人民の入れ札」(選挙)によって選ばれ、国内がよく治まっていることなどについて忌憚(きたん)なく語った。この時、万次郎は土佐藩に登用されて高知の教授館に英語教師として出仕したばかりであった。
その後、代官江川はペリー再渡来に備えて、万次郎を召し出して自分に配属させるよう幕府に働きかけた。この結果、万次郎は「御代官江川太郎左衛門手付」を命ぜられた。一介の見習漁師の少年から士分に取り立てられ、故郷にちなんだ中浜という姓を名乗ることになった青年を、江川は専属の通訳官兼外交顧問として活動させる積りで指導を重ねてきた。だが万次郎起用に強く反対する勢力があった。その急先鋒が、水戸藩主徳川斉昭であった。
「アメリカに恩義のある万次郎はアメリカ側に立って案件を処理するに違いない」との登用警戒論であった。結局、江川は万次郎に翻訳作業に従事させるだけにとどめざるを得なくなった。
万次郎は、アメリカ船に救われて未知の社会の存在を知らされたことが、その後の一生を決定付けることになった。日本における万次郎の封建制度の世界では、生まれながらにして身分は決められていた。だがアメリカの社会では、努力と実力によっては自分の地位を自分で選び取ることが出来た。彼の帰国後の発言のうちで幕末の治世者に衝撃を与えた言葉は「アメリカでは国王を入れ札で選び、四年たてば交代するものと決っている」(大統領選挙制度)であった。その後、彼は不満を抱えながらも開国前後の通弁(通訳)を務め、明治維新後は開成学校英語教授となった。
万次郎の後半生は必ずしも恵まれたものではなかった。が、子息は秀才ぞろいで、医学博士・中浜東一郎、工学士・西次郎、海軍主計大監・計三郎がいる。万次郎は明治30年(1897)11月12日、波乱に満ちた生涯を閉じる。享年71歳。
安心、それが最大の敵だの他の記事
おすすめ記事
リスク対策.com編集長が斬る!今週のニュース解説
毎週火曜日(平日のみ)朝9時~、リスク対策.com編集長 中澤幸介と兵庫県立大学教授 木村玲欧氏(心理学・危機管理学)が今週注目のニュースを短く、わかりやすく解説します。
2025/02/25
トヨタが変えた避難所の物資物流ラストワンマイルはこうして解消した!
能登半島地震では、発災直後から国のプッシュ型による物資支援が開始された。しかし、物資が届いても、その仕分け作業や避難所への発送作業で混乱が生じ、被災者に物資が届くまで時間を要した自治体もある。いわゆる「ラストワンマイル問題」である。こうした中、最大震度7を記録した志賀町では、トヨタ自動車の支援により、避難所への物資支援体制が一気に改善された。トヨタ自動車から現場に投入された人材はわずか5人。日頃から工場などで行っている生産活動の効率化の仕組みを取り入れたことで、物資で溢れかえっていた配送拠点が一変した。
2025/02/22
現場対応を起点に従業員の自主性促すBCP
神戸から京都まで、2府1県で主要都市を結ぶ路線バスを運行する阪急バス。阪神・淡路大震災では、兵庫県芦屋市にある芦屋浜営業所で液状化が発生し、建物や車両も被害を受けた。路面状況が悪化している中、迂回しながら神戸市と西宮市を結ぶ路線を6日後の23日から再開。鉄道網が寸断し、地上輸送を担える交通機関はバスだけだった。それから30年を経て、運転手が自立した対応ができるように努めている。
2025/02/20
能登半島地震の対応を振り返る~機能したことは何か、課題はどこにあったのか?~
地震で崩落した山の斜面(2024年1月 穴水町)能登半島地震の発生から1年、被災した自治体では、一連の災害対応の検証作業が始まっている。今回、石川県で災害対応の中核を担った飯田重則危機管理監に、改めて発災当初の判断や組織運営の実態を振り返ってもらった。
2025/02/20
2度の大震災を乗り越えて生まれた防災文化
「ダンロップ」ブランドでタイヤ製造を手がける住友ゴム工業の本社と神戸工場は、兵庫県南部地震で経験のない揺れに襲われた。勤務中だった150人の従業員は全員無事に避難できたが、神戸工場が閉鎖に追い込まれる壊滅的な被害を受けた。30年の節目にあたる今年1月23日、同社は5年ぶりに阪神・淡路大震災の関連社内イベントを開催。次世代に経験と教訓を伝えた。
2025/02/19
阪神・淡路大震災30年「いま」に寄り添う <西宮市>
西宮震災記念碑公園では、犠牲者追悼之碑を前に手を合わせる人たちが続いていた。ときおり吹き付ける風と小雨の合間に青空が顔をのぞかせる寒空であっても、名前の刻まれた銘板を訪ねる人は、途切れることはなかった。
2025/02/19
※スパム投稿防止のためコメントは編集部の承認制となっておりますが、いただいたコメントは原則、すべて掲載いたします。
※個人情報は入力しないようご注意ください。
» パスワードをお忘れの方