2015/11/25
誌面情報 vol52
元陸上自衛隊化学学校副校長株式会社 重松製作所主任研究員 濵田昌彦
はじめに
リオのオリンピックを2年後に控えて、ブラジルのCBRN分野でのオリンピック準備はどこまで進んでいるのだろうか?ふと、そんなことを考えることがある。きっかけとなったのは、2年前にカリフォルニア州サンディエゴで開催されたCBRNe Convergence 2013というシンポジウムで聞いたブラジル陸軍マリツィア大佐の講演であった。彼は、サッカーワールドカップでのCBRN防護を一手に担当していた。「意外に進んでいる。レベルが高いなぁ」というのが正直な感想であった。分野によっては、例えばCBRN関連データの融合や、遠隔地から監視・測定をするスタンドオフセンサーの活用に関しては、日本よりもはるかに先を行っているようにも感じた。
ブラジルワールドカップでのCBRN対策を紹介できることは、日本の関係者にとっても意義深い。特に、CBRNセンサーの誤報の問題や、マスデカン(大量被害者の除染)、多機関連携、モバイルラボ、地方との能力格差、政治家のCBRNに対する姿勢の問題などは、大規模イベントにおけるCBRNを考える上で、避けて通れない世界共通の課題であろう。これらを学ぶことは、2020東京オリンピックにおけるCBRN準備に直結する。
なお、この話の細部は、2016年6月に、品川の東京マリオットホテルで開催予定のCBRNe Convergence Asiaで詳しく聞くことができる。ブラジルの現在の担当者からの発表を楽しみにして頂きたい。
2014年
ブラジルワールドカップの年。この年は、実はいろいろなことがあった年であった。中東では、イスラム国が勢力を伸ばし、シリアやイラク国内では何度も化学兵器が使われた。もちろん、イスラム国がこの時点においてブラジル国内で化学テロなどを行うことは考えにくかったが、CBRN対策を考える上で、多くの要因があったことは事実であろう。
積み重ね
ブラジルが、CBRN対処能力を一朝一夕に持つようになったわけではない。ブラジル陸軍が主体となって育成してきたブラジルのCBRN能力は、2011年のWorld Military Games(各国軍隊のオリンピックのようなもの)のセキュリティを整備する中で、最初の飛躍を見せる。その後、2013年7月にはワールド・ユース・デイに合わせてローマ法王がブラジルを訪問する。この時も、海岸ミサでコパカバーナビーチを埋め尽くした300万人の群衆(信者)に対するCBRNテロを警戒して、ブラジル政府は万全の体制を敷いた。その前の6月には、サッカーのコンフェデレーションズカップがあり、本番のワールドカップに向けてさまざまなCBRN防護システムが試され、訓練も本格化した。
JHATとCoBRAの出番
コンフェデレーションズカップやワールドカップでは、CBRNにおいても競技場やその周辺のスクリーニング(捜索)、サーベイ(調査)、アクセスコントロール(出入制限)の3つが関係者の主な任務となる。
一方で、ローマ法王の訪問では、通過するエリアの安全確保が大きな任務となってくる。そして、オリンピックでは、VIPを考えればその両方が課題になってくる。
そこで、JHATとCoBRAの出番である。公共スペースの安全確保や地下鉄、空港、ホテルの安全確保にまで大きく役割を果たしたのがこの2つを組み合わせたシステムであった。
JHATは、Joint Hazard Assessment Teamの略であり、市内の要点に分散してディフェンスグループ社のCoBRAという情報共有のためのソフトと相まって、さまざまな現場でのサーベイを可能にした。このチームを戦略上の要点に事前配置してサーベイしておくことと、スタンドオフセンサーで広範囲をモニタリングしておくことにより、いかなる化学攻撃も発見できることが期待されている。この方式は、2020の東京でも検討されるべきであろう(なお、スタンドオフセンサーの使い方とその限界についての細部は、後述する)。
誤報の問題
放置されたバックパック(リュックサック)を調べていて、化学剤や放射能の検知器がいきなり警報を出して大騒ぎになることがよくあったらしい。誤報である。これは、日本でも洞爺湖サミットなどで経験している。ブラジルでは、医療用の放射線源による誤報もよくあったらしい。こんな時、ブラジルの陸軍技術センターが大きな役割を果たしたという。
どの検知器にも限界がある。製造メーカーと連携しつつ、その検知器の原理をよく理解した上で、最適な検知器の組み合わせを考え、迅速確実に検知を実現することこそが、現場で求められている。その実現に、陸軍技術センターの知見が大きく貢献したというのだ。
ライブラリーと改良改善
誤報の多くは、検知器のライブラリー(データの集積)の相違によるものであったらしい。これは、実際にサリンなどの神経剤を使用して確認してみるとよくわかる。ライブラリーが微妙にずれていたりして検知できなかったり、あるいは逆に他の薬品で反応したりといったことが起こり得るのである。このような誤報が、ワールドカップ開催中のゲームの時間でも多く見られたらしい。
多くの検知機材は、そのほとんどが北半球の冷涼な国々で開発され、製造されている。その文化や考え方、手順、要領は南半球にあるブラジルとは大きく異なっている。具体的には、性能試験がその製造国特有の条件で実施されていることが多い。それは、ブラジルの実際の使用条件とは異なっていることも多々ある。ブラジル国内においてさえ、競技場の場所によっては湿度や気温は大きく異なる。これによって、メンテナンスやフィルター交換、乾燥剤の使用や交換等に特別の配慮が必要になることもある。
従って、多くの検知器のライブラリーは、程度の差はあれ改良・改善が必要であった。大半が熱帯に合ったものにするとともに、新たなパターンを付加したり、警報設定を変えたり、要求に合致したライブラリーを作成するといったことであった。
さて、夏場に開催される2020東京オリンピックでは、その湿度や気温は熱帯のようであるかも知れないのだが…。(写真はDefense Group社より)
エチレンオキサイド
実例がある。ワールドカップの際に、ホテルの部屋をスクリーニングしていた現場で、エチレンオキサイドが検出されアラームが鳴ったことがあったらしい。この化合物は、有毒で危険性が高いが、一方で消毒等にも用いられるため比較的入手は容易である。ここでのポイントは、本当に危険な状況やテロの兆候があるのか、それとも全く違う要因があるのかという点であった。
初動調査の結果、JHATチームは、その部屋が2日前にペンキを塗ったばかりであることを知らされた。有機塗料からは、極微量のエチレンオキサイドが出てくることが知られている。このケースでは、実際にエチレンオキサイドが出ていた(陽性)訳であるが、テロなどの兆候ではなかったことになる。
このような誤報は、おそらく東京でも起こりうる。冷静に対処できるだけの知見を積み重ねておくことが肝要である。 その他の誤報の例もいくつかあるが、陸軍技術センターではライブラリーの中の全ての化学物質と、それぞれの危険性、通常それが存在しうる場所、それによって起こりうる警報等について、脅威・リスクに応じて一表にして準備するとともに、誤報が報告された物質のサンプルを収集し、さまざまな条件で分析・測定し、これらのデータを製造企業に送り返し、新たなライブラリーを作成させて検知器に加えていくなどの対策をとっていた。
これらの地道な改善によって、誤報は大きく減少した。検知器の技術に対する理解が深まるにつれてCBRN活動における関係者の全般的な対応能力も向上することになった。
多機関連携とJHAT
いかに多機関でうまく連携してオペレーションできるか?大規模イベントでのCBRN対策を考え、実行していく上での核心となるところである。ブラジルでは、この点についていくつか教訓を得ている。前述のJHATがうまくいくためには、異なる機関(警察、消防、自治体、軍)の文化の違いを乗り越えていかなければならない。それぞれの手順や用語、要領も違う。装備も違うし権限や法的な根拠も異なる。ワールドカップにおいては、軍(国防省)と法務省の間でセキュリティの役割分担が明確化された。他の機関の役割も明確化された。
開催地12都市のそれぞれで、陸軍のコーディネーターとセキュリティのコーディネーターが指名された。JHATの活動は、陸軍の化学科将校が調整役となった。それぞれの要員は、陸軍からCBRNチームが(海岸近くの都市では海軍から)、爆発物処理(EOD)専門家が警察から、ハズマット関連要員が消防から、そして原子力規制官庁のスタッフがこれに加わった。原子力関係者は、放射線関連の緊急事態、ダーテイボムや核テロの対応を想定してのことである。その他に、医療関係者や他の関係省庁のスタッフは、各レベルの指揮所において連携を図ることになる。
ワールドカップでの教訓
では、これらのブラジルの経験の中から出てきた教訓について見てみよう。
①(JHATのような組織では)一人の指揮官がいるわけではない。あくまでも「コーディネーター」である。各機関には、それぞれの指揮系統があり、それは独自のものである。コーディネーターは、時には現場チームでのリーダーとして行動し、規定に従って動き、ミーティングを開いたり、ブリーフィングをしたりといったことをする。これなどは、日本の関係者の中でよく議論になる「現地調整所かICSか?」といった議論に、大変参考になるのではないだろうか。
②万が一の場合に備えて、競技場のJHATルームにいて専門分野についてアドバイスするエキスパートへの信頼は極めて重要である。
③各要員に対する情報提供と、要員からの報告受けは極めて大切である。常に最新の情報、データが把握されて、全員で共有されている状態を確保する。
④現地での訓練やシミュレーションを積み重ねて、通信周波数の違いや用語、手順、要領の違いからくるトラブルを最小限にしておく。
⑤各機関の末端の、さらに末端の部署にまで、重要事項を徹底しておくこと。末端の人々は、通常は施設やエリアの封鎖といったことを知らないことが多い。
⑥各人の任務と役割を明確化しておくこと。これは、専門家チームだけでなく、オペレーションに参画する全ての人々に徹底すること。例えば、ホテル従業員やスタジアムのレストランのウェイトレスから、電車の車掌、ボランティアに至るまでである。これらの人々の訓練では、どんなCBRN脅威、リスクがあって、防護はどうするのか、不審なものにはどんなものがあるのかといったことを教え込んでおく。
⑦除染所は、その位置を事前に選定し、できるだけスタジアムの近くで車両に積載した形で事前配置しておく。⑧訓練用資材の準備を周到にしておく。
⑨通信の冗長性を確保しておく。
⑩市街地の移動については、市役所や警察と十分に調整しておく。
⑪資格システムは、厳格に適用する。(危機管理における保有資格によって、就ける役職が決まってくる。)
⑫避難計画は、それに従って徹底的に(軍や警察も使って)訓練しておく。これには、除染計画も含まれる。
SIBCRAと履歴管理
「しぶくら」??渋柿の入った蔵の事かと思ってしまう向きもあるかもしれないが…。Sampling, Identification of Biological, Chemical and Radiological Agentsの略である。文字通り、“CBR剤の試料採取と検知特定”のことである。CBRN専門家の間では、よく使われる用語である。通常は、
専門のSIBCRAチームによって行われる。
履歴管理は、日本では馴染みが薄いが、Chain of Custody、あるいはChain of Evidenceといわれるものである。サンプルがどのように採取され、梱包され、輸送され、開封され、分析され、再び密封されたかといった記録がきちんと残ってないと、国際的にも証拠として採用されることはない。この分野は、ブラジルではすでに確立され厳格に遵守されていた(日本ではまだ…)。多機関が関与し、多くの都市で分散して開催されていたワールドカップでは、このことは非常に重要だった。白い粉のような事案では、大半はそのスタジアムで判定、処理されたが、いくつかのケースでは、厳格なChain of Evidenceのもとで陸軍技術研究所に後送され分析された。オリンピックに向けて、ブラジルでもこのChain of Evidenceがさらに強化されようとしている。これは、基本的には警察の役割であり、そのことは法律にも明記されている。ただ、もともと陸軍がCBRN分野を推進してきたブラジルでは、陸軍と警察の間のサンプルのやり取りも出てくるであろう。また、全てのサンプルが、このChain of Evidenceのもとで運ばれたわけではなかったようである。そこは、反省点として残る。また、記録でいえば、爆発物の分野でのChain of Evidenceは日本でもブラジルでも確立されているようであり、そこから学ぶのも一案であろう。
スタンドオフセンサーをどう使うか
ブラジルでは、2011年ごろからすでにスタンドオフセンサーを使っていた実績と経験がある。その意味では、この分野の先駆けとも言えるだろう。世界で、スタンドオフセンサーを使いこなしている国はそう多くはない。では、ワールドカップで使ってみて、どんな教訓があったのだろうか?
ブラジルが初めてスタンドオフセンサーを使用したのは、2011年のWorld Military Gamesにおいてである。この時も、広い場所、即ちコパカバーナ海岸やスタジアム、大型体育館のようなところでは、大変有効であることがわかっていた。大半はうまく機能したし多くの教訓も得られた。そこでの注意点として、ブラジルは以下のような点を挙げている。
①自らの手で、性能試験を実施しておくこと。メーカーは大抵、その器材は5~6㎞先の剤雲を捉えられるとしている。しかし、この性能というのは、剤雲の大きさや天候によって大きく左右される。現場でこの性能を出すのは極めて難しい。だから、企業の言うことを鵜呑みにしてはならない。いくつかの機材を実際に試験し比較してみて、このスタンドオフの技術に対する理解を深めてから、選定を考えるべきである。この際、自分の対象とする脅威(化学剤などの種類)を考慮し、目的に合ったものを選ぶべきであろう。
②キャリブレーションとメンテナンスが極めて大事である。イベントの事前テストで性能を確認しておくこと。バックグラウンドを把握しておくこと。そうしないと、トイレからのアンモニアやハーフタイムのビールのエタノールに反応して避難警報を誤って発令しかねない。
③スタンドオフセンサーは極めて有効なツールである。特に、開豁地でかつ多くの群集がいてSIBCRAチームが自由に動けないような場面で剤雲を掴むような場合には…。しかし、経験上から言って、剤雲が小さいときには、1.5㎞先までがせいぜいである。そのように考えておいた方がよい。
マスデカン(大量被害者の除染)をどうするのか
ブラジルでは、ローマ法王訪問の際に、この課題について多くの教訓を学び、ワールドカップに役立てたという。その教訓とは、除染所の位置決めなどにおいて、
①大量の水が確保できるところに選ぶこと
②会場の出入り口から近いこと
③状況に応じて、車載型にすること
④消防、医療、警察、陸軍等が協同して実施することなどであるという(いずれも、当たり前のことではあるが…)。
必要に応じて、メディカルトリアージや地域封鎖も20分以内にできるようにスタンバイしていたという。
オリンピックに向けて~優先すべき課題
現在のところ、以下のような課題が考えられているようである。そして、その多くは日本にも当てはまるであろう。
①過去のイベント、事案、訓練などから学んだ教訓を再整理して、それに基づき、オリンピックに向けての訓練計画、諸規定を整備していくこと。
②CBRNについて一定の知見を持った専門家、技術者の不足を克服すること。特に、これは地方にとっては大きな課題である。そのための教育も必要になるだろう。
③大量のCBRN傷病者が一気に出たときの医療体制をどのように整備していくのか。
④国際機関OPCWとの連携をさらに深化させていくこと(日本の場合には必要性は薄いかもしれないが…)。
おわりに
JHATやCoBRAによって速やかに化学テロの兆候を掴み、認識の共有を図ること、誤報に対する対応を確立すること、スタンドオフセンサーを使いこなすことなど…。どれをとってみても、勉強になるなあと感じるのは筆者だけだろうか。2020東京オリンピックまであと5年。何ができるだろうと考えてみる。
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