若き日の八木重吉(筑波大学附属図書館資料より)

詩人・八木重吉、没後90年

「詩人八木重吉の詩は不朽である。このきよい、心のしたたりのやうな詩はいかなる世代の中にあっても死なない。詩の技法がいかやうに変化する時が来ても生きて読む人の心をうつに違ひない…。」(高村光太郎「定本 八木重吉詩集・序」)

私は千葉県柏市に住んでいるが、10月も半ばに入ると重吉の詩を読むようにしている。「詩集」の勝手なページを開いては読むのである。それは重吉が他界した命日が10月27日だからであり、私の重吉芸術に対する敬愛の念を示すものでもある。重吉の法要忌を「茶の花忌」と呼ぶが、それは秋も深まったこの時期に開花する茶の花の純白なイメージを重吉の詩魂に思いをはせて命名したのだろ。事実、重吉は秋をテーマにした秀作を数多く残している。

詩人・八木重吉が、昭和2年(1927)肺結核のため30歳前という短くかつ敬虔(けいけん)なキリスト教徒としての生涯を閉じて2017年で90年である。昇天時には無名に等しかった彼は、没後純粋な美しい心境を歌った詩人として、同時に日本近代のキリスト教徒の詩の中でも最も高い地点にある芸術として評価され愛読者を確保している。 

重吉は明治31年(1898)、東京府南多摩郡堺村相原大戸(現東京都町田市相原大戸)の豊かな農家の次男に生まれた。神奈川県鎌倉師範学校(5年間、現横浜国立大学教育学部)を経て、大正6年(1917)に東京高等師範学校(4年間、東京教育大学を経て現筑波大学)文科第3部(英語科)に入学する。東京高等師範学校は日本の高等教育界のエリートを育成する最高学府の一つで最難関校であった。

重吉は全ての学科で優等な成績を修めているが、中でも英語力は抜群であった。高等師範時代に重吉の将来を決定づける「事件」が3つあった。1つは聖書の耽読とキリスト教指導者(無教会主義クリスチャン)内村鑑三へ傾倒したことである。2つはイギリスのロマン派詩人の作品を味読し、その影響のもとに詩と油絵の制作に情熱を傾けたことである。3つは将来妻となる女学生(島田とみ子)と巡り合ったことである。

大正10年(1921)、高等師範を24歳で卒業し、兵庫県御影(みかげ)師範学校(現神戸大学教育学部)の英語教師に任じられ赴任した。英語教師のかたわら詩作にはげみ、詩と信仰合一の生活を送った。翌11年とみ子(18歳)と結婚した。12年5月長女桃子が生れ、14年長男陽二が生れた。この後に重吉と東葛飾地方(現千葉県北西部)との短くも決定的な邂逅(かいこう)が待っているのである。