幕末遣米使節随員・玉虫左太夫~近代への大いなる目覚めと挫折~
「航米日録」記した悲運の逸材

高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
2018/01/09
安心、それが最大の敵だ
高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
激動の幕末に太平洋を渡った遣米使節団(77人)のうち、私は使節団正使・新見豊前守正興(にいみぶぜんのかみまさおき)の従者(随員)である仙台藩士・玉虫左太夫(たまむしさだゆう)に注目する。彼の克明な「航米日録」(航海日誌)に強くひかれるからである。
左太夫は、文政6年(1823)仙台に生まれた。学問を究めたい一心から、24歳の時脱藩し江戸に出て大学頭林復斎の門に入った。高い教養が認められ塾長を命じられ、大名などに復斎の代講をつとめるまでになった。万延元年(1860)、幕府がアメリカと通商条約締結のため使節団を送ることになった。彼は正使新見豊前守の従者に選ばれアメリカの軍艦ポーハタン号で太平洋を渡った。未知の国への旅立ちであった。
日本を離れるとすべてが新しく、奇異に映るのは当然であった。左太夫は外国語の知識に欠け、海外事情にもそれまで無縁であった。だが、俊才の彼は儒学の素養と鋭い観察眼によって異国をつぶさに観察し、詳細かつ正確な記録を残した。「航米日録」(8巻)である。比類ない観察記録といえる。副使・村垣淡路守範正(のりまさ)の日記が、アメリカの進んだ文物に接しながら、「えみしらも あおぎてぞ見よ 東なる 我日本(ひのもと)の 国の光を」と31文字に読む国粋ぶりとは異なり、左太夫は知的に、客観的に見聞を詳細に書き留めた(批判的記述は別の日誌に書き止め他見に供しなかった)。米艦ポーハタン号乗艦から世界一周を果たして横浜帰港までの9カ月の間、果敢な取材や観察をもとに具体的数字を挙げて実証的に記述するその手法には類を見ない価値がある。彼は緻密で冷静な頭脳の持ち主であった。
文学者・遠藤周作は左太夫の近代化への目覚めに注目した最初の作家である。「走馬灯」の「玉虫左太夫のこと」より引用する。
「左太夫の『航米日録』は、その素直な感受性と率直な批判精神で書かれた得がたい外国体験の記録である。まず彼には、その後の留学生たちに見られるような卑屈なコンプレックスは毛頭なかったが、と言って無意味な強がりや偏見もない眼で、米国を見ようとしたのである。彼は最初、米国を聖道のない国と考えていた。米国人を礼節をわきまえぬ国民と考えていた。その定太夫が、幕府の遣米使節の最下級の属官として米国船に乗りこんだのである。そして彼は、毎日の船旅で少しずつ、自分のこの考えが間違いであったことに気づいていくのだ」。
遠藤は左太夫の目覚めを具体的に記す。
「日本を離れると、船はたびたび暴風にあった。属官である彼は正使、副使たちと違い、もっともひどい場所に起居していたため風波に持物を濡らし、ずぶ濡れになったが、その都度、親切に助け、慰めてくれたのは同乗した日本人の上司たちではなく、ほかならぬ米国人の下級船員たちだった。彼は米国人にたいする偏見がまず薄れたのはこの時である。
左太夫は、この船内で士官と水兵とが互いに助けあい、協力しあい、その交情の親密なことに気づき始めた。これは、彼が受けた儒教的教養にたいする最初の衝撃だった。米国人には聖道はないかもしれぬが、そのかわり人間的な暖かさがあると彼は気づいたのである。
『我国にては礼法、厳にして、総主などには容易に拝謁するをえず、少しく位ある者は…下を蔑視し、情交、かえって薄く、兇事ありといえども悲嘆の色を見ず』と彼は書いた。『しからば、礼法厳にして情交薄からんよりは、寧(むし)ろ、礼法薄くとも情交、厚きを取らんか』
なんと爽やかで、率直な観察と結論であろう。玉虫左太夫は厳しい儒学的教育を受けて育った侍だっただけに、この彼の反省は我々もしみじみと受け取れるのだ。
こうして太平洋を渡り米国に赴く船のなかで、左太夫の心には少しずつだが微妙な変化が始まった」
「属官である彼が、自分の船内観察や考えが上司に伝わるのを怖れて、自分だけの日記をつけだしたのもこの時からである。その日記には、同船の日本人上司にたいする痛烈な批評も書き込まれている。たとえば、同船の日本人たちは船内の食事に不平を言いつづけているが、連中は平生は家にあっては一汁一菜しか食べていないくせに、こういう旅行の際には『俄(にわ)かに奢侈の言を発して美味を好む』とは不思議であると、彼は言っている。
(中略)。左太夫の上司にたいする批判は彼自身が属官であるゆえんの不平も感ぜられないではないが、しかし、いかにも外国旅行に行く日本人的な性格を浮き彫りにしていて、今も昔も変わらない部分を衝いているのが面白い。いずれにせよ、『航米日録』には、初めて接する異国の人によって目ざめていく若い日本青年の心の変化が、手に取るように書かれている」。
安心、それが最大の敵だの他の記事
おすすめ記事
自社の危機管理の進捗管理表を公開
食品スーパーの西友では、危機管理の進捗を独自に制作したテンプレートで管理している。人事総務本部 リスク・コンプライアンス部リスクマネジメントダイレクターの村上邦彦氏らが中心となってつくったもので、現状の危機管理上の課題に対して、いつまでに誰が何をするのか、どこまで進んだのかが一目で確認できる。
2025/04/24
常識をくつがえす山火事世界各地で増える森林火災
2025年、日本各地で発生した大規模な山火事は、これまでの常識をくつがえした。山火事に詳しい日本大学の串田圭司教授は「かつてないほどの面積が燃え、被害が拡大した」と語る。なぜ、山火事は広がったのだろうか。
2025/04/23
リスク対策.com編集長が斬る!今週のニュース解説
毎週火曜日(平日のみ)朝9時~、リスク対策.com編集長 中澤幸介と兵庫県立大学教授 木村玲欧氏(心理学・危機管理学)が今週注目のニュースを短く、わかりやすく解説します。
2025/04/22
帰宅困難者へ寄り添い安心を提供する
BCPを「非常時だけの取り組み」ととらえると、対策もコストも必要最小限になりがち。しかし「企業価値向上の取り組み」ととらえると、可能性は大きく広がります。西武鉄道は2025年度、災害直後に帰宅困難者・滞留者に駅のスペースを開放。立ち寄りサービスや一時待機場所を提供する「駅まちレジリエンス」プロジェクトを本格化します。
2025/04/21
大阪・関西万博 多難なスタート会場外のリスクにも注視
4月13日、大阪・関西万博が開幕した。約14万1000人が訪れた初日は、通信障害により入場チケットであるQRコード表示に手間取り、入場のために長蛇の列が続いた。インドなど5カ国のパビリオンは工事の遅れで未完成のまま。雨にも見舞われる、多難なスタートとなった。東京オリンピックに続くこの大規模イベントは、開催期間が半年間にもおよぶ。大阪・関西万博のリスクについて、テロ対策や危機管理が専門の板橋功氏に聞いた。
2025/04/15
BCMSで社会的供給責任を果たせる体制づくり能登半島地震を機に見直し図り新規訓練を導入
日本精工(東京都品川区、市井明俊代表執行役社長・CEO)は、2024年元日に発生した能登半島地震で、直接的な被害を受けたわけではない。しかし、増加した製品ニーズに応え、社会的供給責任を果たした。また、被害がなくとも明らかになった課題を直視し、対策を進めている。
2025/04/15
生コン・アスファルト工場の早期再稼働を支援
能登半島地震では、初動や支援における道路の重要性が再認識されました。寸断箇所の啓開にあたる建設業者の尽力はもちろんですが、その後の応急復旧には補修資材が欠かせません。大手プラントメーカーの日工は2025年度、取引先の生コン・アスファルト工場が資材供給を継続するための支援強化に乗り出します。
2025/04/14
※スパム投稿防止のためコメントは編集部の承認制となっておりますが、いただいたコメントは原則、すべて掲載いたします。
※個人情報は入力しないようご注意ください。
» パスワードをお忘れの方