常に住民の側にある防災計画を目指して

Interview 室蘭工業大学副学長加賀屋誠一氏

全国でいち早く地区防災計画を策定した石狩市。東日本大震災後に市の防災計画に危機感を感じた田岡克介市長が助言を求めたのが、当時、北海道大学工学研究院特任教授で、都市計画の専門家である加賀屋誠一氏(現室蘭工業大学副学長)だ。加賀屋氏は地域防災計画改定と地区防災計画策定の中心人物となり、プロジェクトを推進した。加賀屋氏に、地区防災計画の重要性と作成のポイントを聞いた。

防災はまちづくり
「防災計画は本来、まちづくりと同じ。まちのレジリエンス(しなやかな回復力)を保持するために、防災計画をベースにしてコミュニティのつながりを強くし、コミュニティを再生するきっかけを作ることが大事だ」と加賀屋誠一氏は開口一番そう語ってくれた。 

加賀屋氏がコミュニティの強化による地区防災の重要性を訴えるのは東日本大震災よりも前からだ。「有珠山の守り神」とも呼ばれ、2000年の有珠山の噴火予知から近隣住民の避難までを指示した、元北海道大学附属地震火山研究観測センター長の岡田弘教授(現北海道大学名誉教授)の影響が大きいという。 

有珠山は現在でも20年~30年に一度は噴火する活火山。噴火にはほぼ例外なく体に感じるような地震を伴うことから噴火は予知しやすいとも言われるが、岡田氏は火山が静穏な時期から地域住民と密着し、防災活動を浸透させてきた。その結果、噴火時にはスムーズな避難が成功し、死者が出なかったことや、日頃から自治体職員や防災機関と連携し、有珠山の噴火時に的確な助言をしたことでも知られていた。 

加賀屋氏の専門は都市計画や交通計画だが、根本的には「まちづくりがどうあるべきか」がテーマだという。都市防災については早くから学んできたが、岡田氏の影響で防災にはコミュニティのつながりを強化しなければいけないことを強く意識するようになり、新たな防災のあり方について研究を重ねていた。この経験が、石狩市長から諮問を受けた時に即座に地区防災計画を提案することにつながったという。

地区防災はアクションプラン
「地区防災計画は、地域防災計画のエリアを狭めたものではない。地区防災計画は住民が自ら作るアクションプランでなければいけない」と加賀屋氏は指摘する。石狩市では住民が自らの意思で参加するワークショップ形式で地区防災計画を策定した。自治体が災害対応時に行うべき行動をまとめた地域防災計画が東日本大震災時に有効に機能しなかったことは特に被災の影響が大きかった沿岸部など各地で指摘されているが、極端なことを言えば、住民の立場でまとめる地区防災計画はA4用紙1枚のアクションプランでいいと言う。災害が起きて避難が必要になれば、「○○を持って、この道を通ってここに行きなさい」と書いてあれば十分で、大事なことはそのプランを住民が自ら議論して作成し、それをいつでも見えるところに貼っておいて、実際に行動することだとする。同じように避難所の運営にしても1~2日の避難と、1カ月の避難であれば、持っていく物も避難所の運営の仕方も変わってくる。一時避難場所にしても、例えば札幌市は北海道大学内の農場を指定しているが、災害が冬に発生したら農場には雪が降り積もってしまい避難所には適していない。そういう問題点を、住民が自ら主体的にきめ細かく平時から議論しながら、コミュニティの絆を深めていくような取り組みが、非日常(災害時)のレジリエンスを高めていくのだという。

日常生活での自助・共助
加賀屋氏が地区防災計画策定のワークショップのアドバイスをする上で一番難しかったのは、実際に災害を経験した人が少なかったことだという。石狩市では、30年前の1981年に約大規模水害が発生しているが、それ以降は大きな災害がなかった。そのため、ワークショップは、まず自分たちにどのような災害が起きる可能性があるのかを想定することから始めた。ただ、どのような規模の災害を想定すればいいのか議論が分かれたという。例えば津波の高さは何mまで想定しなければいけないのかなど、現在の知見をもってしても分からない部分が多い。ワークショップの開始当初は他にも難しい議論が百出して混乱することもあったが、加賀屋氏は、地区防災計画は自助・共助の部分がほとんどであり、行政に対して何かを陳情するのではなく、まず自分たちに何ができるかを考えてもらうように説明し、少しずつ納得してもらったという。 

「最終的には、普段の生活に防災・減災と言った視点をどう組み入れてもらうかであり、日常生活の中で自助・共助への取り組みが身についていくことが大事。地区防災ガイドを作った石狩市の一番大きな成果は、常に住民の側に地区防災計画が置かれるようになったことだ」と加賀屋氏は話している。