2017/11/20
安心、それが最大の敵だ
徹底していた博士嫌い、権威嫌い
漱石は博士号に対する批判的考えをいつ頃から抱いていたのだろうか。漱石は、ロンドンでの留学生活がほぼ1年を経過した明治34年(1901)9月22日、妻・鏡子に宛てた手紙に書いている。
御梅さんは妻・鏡子の妹である。同年8月15日の漱石の日記に「故郷より妻、妻の父、梅子より手紙来る。妻より冬の下着2着、ハンケチ2枚、梅子よりハンケチ2枚送り来る」とある。梅子さんは家族と遠く離れ異郷の地ロンドンで、一人研究生活を送る義兄を励ます積りで、ハンケチと一緒に私信を送ったのであろう。ところが漱石の逆鱗に触れてしまった。<博士嫌い>は既に漱石には骨の髄までしみ込んでいたのである。博士号に対する漱石の過敏な反応ぶりは、ロンドンから帰国しても収まる気配はなかった。門下生らに宛てた手紙からもその事実が読みとれる。
「吾輩は猫である」を発表し、作家としてデビューした明治38年(1905)11月10日、鈴木三重吉に宛てて書いている。
翌・明治39年(1906)1月10日、門下生の森田草平に送った手紙に記している。
漱石が指摘するように、人間は博士になるために生まれてきたわけではない。博士になるもならぬもその人の自由である。しかしながら「乞食」のたとえは激烈である。「荒城の月」の作詞者も、漱石の啖呵を切るような台詞には驚いたと思われる。この明治39年、漱石は「坊っちゃん」を書いている。上記の手紙の論調は、江戸っ子坊っちゃんの直情な生き様に、どこか通じるものがある。教頭赤シャツに向かって「憚(はばか)りながら男だ」と憤慨する坊っちゃんと土井晩翠に「乞食になっても漱石だ」と書き送った漱石のイメージが重なってくる。
大学屋と新聞屋
東京帝大における夏目金之助(漱石)の身分は、英文科の専任講師であった。明治43年(1910)3月には教授に推薦される話が持ち上がっている。創作への情熱を抑え難くなった漱石は大学教師(漱石の言う「大学屋」)を辞めて、朝日新聞の専業作家(同「新聞屋」)へと転身してしまった。「入社の辞」は意表を突く内容だった。当時の世俗的な価値観に従えば、栄誉ある帝国大学教授就任の好機を放棄して、新聞社に鞍替えする漱石の選択は、国民に奇異な(場合によっては無謀な)印象を与えたはずだからである。常軌を逸した行動と取る人もいたであろう。「入社の辞」を漱石はこう締めくくっている。
「新聞社の方では教師として稼ぐことを禁じられた。その代わり米塩の資に窮せぬ位の給料をくれる。食ってさい行かれれば、何を苦しんでザットのイットのを振り廻す必要があろう。やめるなと云ってもやめて仕舞う。やめた翌日から急に背中が軽くなって、肺臓に未曾有の多量な空気が這入ってきた。(中略)。人生意気に感ずとか何とか云う。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為に、変り物として出来る限りを尽くすは、余の『嬉しき義務』である。」
漱石は、入社時から10年足らずの人生の間に、10冊をこえる名作を書き上げて行く。「嬉しき義務」の遂行であった。漱石が最初に書いた新聞連載小説は明治40年(1907)6月23日~10月29日にかけて掲載された「虞美人草」である。この長編小説の中で、漱石は博士論文を書いている若い文学者・小野清三を登場させている。小野は恩賜の時計をもらって東京帝大を卒業し、教授からも将来を嘱望される秀才である。自分の未来を博士の称号に託している。小野にとって、「博士は学者のうちで色の尤(もっと)も見事なるものであり、未来の管を覗く度に博士の二字が金色(こんじき)に燃えている」というのである。
だが漱石は小野を実に情けない人間として描いた。意気地がなく、優柔不断で女々しい人間として描いている。妖しい雰囲気を漂わす美貌の女性、藤尾の色香に惹かれた小野は、結婚を内諾したのも同然の間柄にある小夜子の存在が、徐々に疎ましくなってくる。幼い時に孤児となった小野は、かつて小夜子の父である恩師の井上孤堂の世話になり成長した。小野には心変わりを孤堂先生に伝える勇気がない。そこで、博士論文執筆中の多忙を口実に、結婚の断わりを孤堂先生に入れてくれるよう、友人に懇請する。漱石は、作品中で孤堂先生に「人一人殺しても博士になる気か」と叫ばせる。漱石の<博士嫌い>は極点に達した。
参考文献:「夏目漱石」(小宮豊隆)、「漱石とあたたかな科学」(小山慶太)、「夏目漱石」(福原麟太郎)、「夏目漱石事典」(編者・平岡敏夫、山形和美、影山恒男)など
(つづく)
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