公団総裁時代の加納久朗。英国紳士の服装を愛した(提供:高崎氏)

敗戦国日本の深刻な住宅事情

私が住んでいる千葉県柏市をはじめ松戸市など、近隣自治体には日本を代表するような大規模団地がそろっている。昭和32年(1957)7月に完成した柏市の団地第1号・光ヶ丘団地(約1000棟)、同市の豊四季台団地(4666棟)、松戸市の常盤平団地(4839棟)、やや離れるが団地より規模の大きい千葉県印西市を中核とする千葉ニュータウンなど…。(「団地」とは「一団の土地」という法律用語の略語である「一団地」から来ている。今日これら大規模団地は半世紀を経て老朽化が著しく、リニューアルが進められている)。

大規模団地の開発は、深刻化する一方の首都圏の住宅不足に対して、敗戦国日本が背負った前例のない「ベッドタウン計画」であった。その一大計画の<実行部隊>が、昭和30年(1955)に発足した日本住宅公団(当時。住宅・都市整備公団を経て現URこと独立行政法人・都市再生機構)であり、その初代総裁として先頭に立ったのが民間の有識者・加納久朗(かのう・ひさあきら、1886~1963)である。加納は上総一ノ宮藩(1万3000石、現千葉県一宮町)の藩主の末裔であり、戦前は華族であった。「お殿様総裁」と呼ばれたが、69歳のお殿様のバイタリティや発想力は、官僚などのお役所仕事をはるかに超えていた。ただものではなかった。

戦時中の米軍機による苛烈な空襲をはじめ強制疎開や敗戦後の海外からの引き揚げなどによって、戦後日本の住宅事情は最悪の状況に陥った。雨露をしのぐのがやっとという掘立小屋生活を強いられた世帯は全国で約420万世帯に達していた(昭和24年建設省推定)。「生き地獄」と言っていい。

政府は、応急簡易住宅建設、非戦災建物の強制開放、都市への人口流入制限、地代家賃統制令の発令などの緊急措置に追われた。昭和25年(1950)には住宅金融公庫(国民の住宅建設資金の融通を目的とする)の創立、翌年からは公営住宅法の制定に踏み切った。だがドッジ・ラインによる緊縮財政下では、公営住宅、公庫融資住宅を合わせても、年間10万棟にも満たない住宅供給を維持するのがやっとの状況だった。民間建設会社による住宅建設も一向に進まず、昭和29年(1954)になっても全国で約280万棟の住宅が不足されているとされた。さらには、産業の復興に伴って、人口の都市集中や核家族化現象も重なるようになり、大都市の住宅難は一大社会問題となっていた。

昭和30年(1955)の「経済白書」は指摘する。「生活の一般水準がほぼ戦前復帰を達成した中にあって、生活の三大要素である住宅面がなお著しい立ち遅れをみせており、生活構造を歪めていることは残された大きな問題である。今や、あらゆる観点から問題を追及して、その解決に努力を集中すべき時期に来ている」。

初代総裁加納は、国際感覚にあふれた民間出身の知識人である。略歴を記すと、旧子爵・加納久宜(ひさよし、鹿児島県の名知事)の次男で、東京帝国大学政治学科卒業後、横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行した。同行のインド、カナダ、アメリカ、イギリス、中国などの支店支配人を歴任する。ロンドン時代には国際決済銀行理事会副会長を務めた。海外生活は30年に及び、英仏独語の読み書きや会話に不自由しなかった。政治思想や人生観は民衆を愛した父久宜の影響もあって極めてリベラルであり、英国紳士が理想の生きざまだった。

ロンドン支店支配人時代に、駐英国大使吉田茂(後に総理大臣)と親交を結び、日米開戦の回避に向けて日英政府要人に極秘裏に働きかけをした。中国に赴任した際には、同行北支最高責任者として経済情勢の分析を行い、同時に知友である内大臣・木戸幸一に蒋介石の真意や国民党と共産党の戦略など現地情勢を報告した。

終戦後、中国から引き揚げ、その英会話能力を買われて終戦連絡中央事務局、食糧対策審議会、賠償協議会などに関わった。ドッジ・ライン実施に際し、米国代表ジョゼフ・ドッジに意見表明と情勢分析を行った。その後、函館ドック、日産汽船、日本軽金属などの役職を歴任し、民間人の立場で東京湾埋立構想(京葉工業地帯として実現)や群馬県の沼田ダム建設計画(幻の計画に終わったが、利根川上流のダム群建設につながった)などを提言し、政治や経済関連の図書を相次いで刊行する。