徳川慶喜の墓地(谷中霊園)

鳥羽伏見の戦い、江戸城への逃避

だが鳥羽・伏見の戦いは徳川軍の敗北に終わった。慶喜は自ら一戦を交えることなく、逃げるように江戸へ帰った。幕府軍は指揮官を失い総崩れとなった。慶喜は新政府軍(西軍)との交渉を幕臣・勝海舟にゆだねた。

幕末の老中格・立花種恭(たちばな たねゆき)の回想によると「いよいよ恭順と決し諸向に達すと、満城の士が泣き出すもあり、落胆するもあり、それはそれは大変な事でした。榎本武揚は満座の中へ突っ立ち上がり、将軍様は腰が抜けたか、恭順するとはと叫び、大久保一翁は榎本は感心な男だと大層に賞賛しましたが、しかしこの中で腰が据わっているのは勝安房(海舟)一人だと言いました」。西軍の東征を迎えて、抗戦か恭順かを議した江戸城での最後の大評定の様子である。痛憤、怒号、涕泣、憤激、悄然の渦巻く中に、毅然として動かざること山の如き勝海舟…(「それからの海舟」半藤一利・参考)。

榎本武揚や大鳥圭介ら主戦派家臣に関しては、彼らが幕府軍を率いて北上し東北各地で転戦して敗北するにまかせ(戊辰戦争)、慶喜自らは謝罪の意を表して恭順・蟄居したのである。確信的決断(倒幕)のもとで行動する薩長討幕派と徳川家臣主戦派とが真っ向から対立する状況のもとでは、慶喜のリーダーシップは分解せざるを得なかった。そのことは慶喜における「変節」の終焉を意味した。つまり政治生命の終焉であった。