勝海舟像(隅田川べりの隅田公園内)

海舟好きと嫌い

明治維新から150年である。幕末・維新の激動に思いをはせる時、幕府側の最重要人物の一人として幕臣・勝海舟(1823~1899)の存在を無視することはとうていできない。あるいは最後の将軍・徳川慶喜よりも重要である、といえる。

海舟の人物像、中でも私を強くひきつける生きざまの断面を点描してみよう。海舟の生前から、<海舟好き>と<海舟嫌い>の両派がいることはよく知られたことだ。「勝海舟」(勝部真長)を参考にして<海舟好き>派と<海舟嫌い>派を見てみよう。

海舟は自伝「氷川清話」のなかで、「大人物というのはそんなに早く世に現れるものではない。通例は百年後だ」と語っている。彼自身は、100年に1人現れる大人物のつもりであっただろうか。幕末、海舟の氷解塾の塾長として海舟の長崎出張中に留守を預かっていた杉亨二(すぎこうじ)は、後に我国統計学の草分けとなり、学士院会員・法博として90歳の長寿を全うし、海舟の生涯をよく観察していた人である。彼は「海舟は日本開闢以来の人豪なり、英傑なり」と絶賛している。(「自叙伝」私家版)。

足尾鉱毒事件の自由民権家田中正造も「安房(あわ、海舟)の知、安房の徳は、天賦にして、普通凡て、普通凡庸の遠く及ばざるのみか、企て及ばざる所なり。・・・一世を以って品評すべからず、100年の後に定まる」と断じている。同じように絶賛である。

さらには、海舟と同時代の人物では、坂本龍馬と西郷隆盛が海舟を認めている。坂本龍馬は文久3年(1863)3月20日付の姉・乙女宛ての手紙に、「今にては日本第一の人物勝麟太郎(海舟)という人の弟子になり・・・」と書いている。西郷隆盛は元治元年(1864)9月、大坂の宿で勝安房守(海舟)と初対面の直後、国許の大久保一蔵(利通)宛ての手紙に、「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候ふ人物にて・・・トンと頭を下げ申し候。それだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。まず英雄肌合いの人にて、佐久間(象山)より事の出来候ふ儀は、一層も越え候はん・・・、この勝先生と、ひどく惚れ申し候。」とある。西郷は一目惚れしてしまったのである。

特に西郷は勝を単なる弁論知恵の人としてではなく、「事のできる」実際家、政治的実務家として見抜いている。坂本、西郷ほどの人物の証言に勝る有力な人物評価はあるまい。

「東洋のルソー」といわれた、明治民権運動の指導者・中江兆民もまた海舟ファンであった。兆民の弟子・幸徳秋水が書いている。「先生、壮時より海舟翁の知を得て、深く人物に推服せり。常に予に語って曰く、勝先生は当代の英雄なりと」(「兆民先生、兆民先生行状記」幸徳秋水)。

ところがその反面、海舟嫌いの流れは根強いものがあって、それが幕臣・旗本(小栗上野介忠順、栗本鋤雲、大鳥圭介ら)あるいは会津藩等の方面に多いのである。敵対した薩長藩閥を核とする明治政府に参加して、伯爵にまで上り詰めた下級旗本出身の勝海舟を「節を屈した」として認めたがらない。この一派の代表格が文明論者福沢諭吉である。彼の「痩我慢(やせがまん)の説」という勝批判は、海舟嫌いの決定版となったといっていい。このように、勝海舟という人物は不世出の人物で魅力的といえる一方で、とらえにくい人間だともいえるのである。