崋山座像(田原市の崋山蟄居跡)

蛮社の獄と崋山

蛮社の獄は洋学者たちに加えた無謀な弾圧事件である。反洋学の幕府目付・鳥居耀蔵(ようぞう)は天保10年(1839)渡辺崋山、小関三英ら26人を逮捕した。その苛酷な取り調べぶりは崋山の作品「牢中縮図」(重要文化財)に描かれている。

才人・渡辺崋山が経世的性格を持ち、しかもそれが旧思想の限界を越えて、その批判を伴った以上、幕府の文教をつかさどる林述斎とその一門の恨みを買うのは、必然の成り行きであった。ことに崋山は林家の家塾の塾頭である佐藤一斎および述斎門下の松崎慊堂(こうどう)に師事していたから、林家の門人筋にあたる。そのうえ彼の交友には、幕府の儒官古賀侗庵をはじめ儒者が多く、彼らの中には崋山の影響で蘭学に心を傾ける者も少なくなかった。このことが崋山への憎悪を一層掻き立てた。

中でも崋山とその同志を敵視したのは、述斎の次男・鳥居耀蔵である。当時鳥居は目付の要職にあり、幕臣の監察にあたっていただけに、江川英龍、羽倉用九、下曽根信敦らの幕臣が崋山と交流することを知って、次第に警戒を強めていった。その彼を崋山らの弾圧に踏み切らせたのは、天保9年(1838)のアメリカ籍貿易船モリソン号事件と、これに続く江戸湾防備の問題であった。同船は異国船打払令により撃退された。これを崋山や長英は批判した。モリソン号来航の風説は、ひとり在野の知識人に衝撃を与えたばかりではない。幕閣にあっても、勝手掛り老中として、幕領の海防にあずかる水野忠邦が、江戸湾防備体制の強化を図って、天保9年12月、目付・鳥居耀蔵と代官・江川英龍に江戸湾岸の調査を命じた。鳥居と江川は、翌10年1月9日に江戸を発ち、調査を終えて3月に江戸に戻った。蛮社の獄がおこる2カ月前のことである。
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町医師高野長英は、のちに獄中で「蛮社遭厄小記」を著し、蛮社の獄の真相を暴露した際、とくに両者の巡見を取り上げ、江川と鳥居が浦賀海岸の測量をめぐって衝突したことが、蛮社の獄の直接の誘因になったと分析している。蛮社の獄の真因は崋山や長英にはあずかり知らぬことであった。江戸沿海の巡見を終えた江川は、巡見復命書を書くに当って、ひそかに崋山を招いて、江戸湾防備に関する彼の意見を求め、さらに復命書に添える予定の外国事情の関する書付の執筆も合わせて依頼した。これに応えて、崋山は江戸湾防備の私案を述べた。それは3月22日のことである。江川はこれらを参考にして復命書を作成し、4月19日に幕府に上申した。

このことを察知したのが他ならぬ鳥居だった。彼は、江川が巡見復命書を提出した当日、配下の小人目付・小笠原貢蔵に対し、老中・水野忠邦の内命といつわって、崋山や彼の同志の身辺の探索を命じた。小笠原は前後2回にわたって鳥居に探索書を提出している。彼に情報の大部分を提供したのは、小笠原の養女の婿にあたる納戸口番(小役人)花井虎一であった。花井は蘭学者宇田川格庵の門下で、その上崋山宅にも出入りしていた。彼は又当時、僧順宜父子らが企てた無人島渡航計画にも関係していた。小笠原は花井から聴取した崋山やその同志に関する情報の他に、特に鳥居の命により再調査した、元来崋山らとは無関係の無人島渡航計画者一味について、詳細な報告をしている。

小笠原の報告を受けた鳥居は、これにさらに潤色を加え、花井虎一の密告との名目で、崋山らおよび無人島渡航計画者一味の告発状をつくって、老中水野に上申した。その内容は、9カ条に要約されるが、特に注目されるのが次の諸点である。第一に、崋山に関する容疑事項が、鳥居の告発状の大部分を占め、しかも小笠原の発案書の記載が著しく歪曲され、あるいはこれに見えぬ事項が加えられていることである。ここに鳥居の第一目標が崋山を陥れることにあったことが、歴然と示されている。次に崋山・長英に師事した者として、松平伊勢守、羽倉用九、江川英龍、下曽根信敦らの幕臣があげられているのは、鳥居のねらいが開明派幕府官僚を失墜させることにあったことを示す。同時に鳥居の陰謀が江川との衝突にからんだ私怨をふくんでいた。

容疑者に対する取調べが進むにつれて告発状に記された容疑事実のほとんどが無実であることが判明した。崋山と長英について言えば、結局残された容疑は幕府批判にかんするものである。長英について言えば「夢物語」、崋山の場合は自宅捜索の結果発見された草稿類で、その一つは未定稿「慎機論」などであった。結局、小関三英は自殺し、崋山は国元蟄居、長英は永牢を申し渡された。崋山はその後自ら命を絶った。長英は脱獄を果たした後逃亡生活を続けた。

安政元年(1854)、幕府はアメリカ、イギリス、ロシアの3国と和親条約を結ぶ。崋山が自刃してから13年後であった。

参考文献:「崋山・長英論集」(岩波文庫)、「わたしの崋山」(杉浦明平)、「永訣かくのごとくに候」(大岡信)、田原市博物館資料。

(つづく)