伊能忠敬像(千葉県香取市佐原、提供:高崎氏)

江戸後期の優れた思想家たち

江戸後期の知識人たちが、当時の「内憂外患」の危機意識をどう表現したのか、科学に対する思想がどう芽生えたのか。「外患」で最初の衝撃は文化5年(1808)のフェートン号事件であった。オランダと交戦中だったイギリスの軍艦が突如、長崎湾に侵入して出島のオランダ館を襲った。これに対して幕府は対処するすべがなかった。200年来の鎖国政策が外からの強い力によって激しく揺り動かされた。

緊迫した時勢の文化9年(1812)、蘭学者杉田玄白の「蘭学事始」が刊行された。前年には測量家伊能忠敬の「沿岸実測全図」が完成した。杉田玄白らが「解体新書」を翻訳したのはそれより30年も前である。玄白の友人平賀源内が示した本草学(ほんそうがく)から電気、採鉱までの幅広い活躍は、日本の知識人がなし得る研究の新分野を開いた。ここで注目したいのが伊能忠敬である。彼は利根川べりの佐原の一介の醤油屋の隠居であった。幕臣でも藩士でもない。だが幕府はこの独学の測量技師に頼らなければ科学的実測ができなかった。

長崎にもたらされた西洋の学問は、日本の優れた才能によって吸収された。享和2年(1802)、蘭学者・天文学者・志筑忠雄の「暦象新書」が完成された。同書は、もともとオランダ語で書かれた天文学の訳書である。しかし彼がそれに付した小論「混沌分判図説」は、世界的な水準を示しているとされる。今日では、カント・ラプラスの説に劣るものではないとされている。ラプラスが星雲説を科学的に立証したのは、1796年であるから、それから6年しか離れていない。蘭学を媒介としながら、ニュートンの力学をここまで消化し、独自に宇宙の秘密を解き明かそうとしたことは大いに讃えられるべき成果であろう。文化12年(1815)には、心学者・鎌田柳泓(りゅうおう)の「理学秘訣」が出ている。彼があらゆる領域にわたる教養の中で蘭学にも触れたということは卓抜な思想を展開することにつながった。同書には唯物論や感覚論が見事に表現されているという。

江戸後期の思想界は経世家本多利明や農業土木家・佐藤信淵(のぶひろ)を生み、また国学者本居宣長や同平田篤胤を輩出した。唯物論を唱え儒学を批判した洋風画家司馬江漢のような時代の先を行く知識人も出た。これらの思想家の中には幕府の存在を疑うような者も少なくなかった。本居宣長は「秘本玉くしげ」の中で、百姓一揆などの騒動が相次いでいることに触れ「いずれも、下の非はなくして、皆上の非なるより起れる」と論難した。

幕末の一部知識人はオランダからもたらされる科学技術に関する解説書を読み、その技術が物理学、化学、そして数学とを基礎に組み立てられていることを知った。蒸気動力がさまざまな分野に応用されていることを彼らは知った。蒸気船、蒸気機関車、工場の旋盤、鉱山の巻き上げ機械、これらの動力の応用範囲の広さに驚くとともに、彼らは幕府当局を恐怖の淵に叩き込んだ黒船(大型蒸気船)の実態も知った。その黒船を自分たちで作り、それに大砲を積む可能性の実現をはかる人々が出て来た。その中心は西南雄藩の藩主たち、鹿児島の島津斉彬、佐賀の鍋島直正らであった。彼らは幕府に対抗するためにも黒船と大砲を必要とした。

こうして幕府倒壊の歯車は回転を早めるのである。