<医師は自己を捨てて人を救うべし>蘭医・緒方洪庵とその精神
この高潔な倫理観を現代は忘れていないか

高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
2018/03/12
安心、それが最大の敵だ
高崎 哲郎
1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。
江戸後期・蘭学者の代表格の一人、蘭医・緒方洪庵(1810~63)を私は尊崇する。彼は大坂の適塾で後世に名を残す多くの人材を育成した。大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、佐野常民、長与専斎、福沢諭吉、高松凌雲…。
洪庵は備中・足守(あもり)藩(現岡山市)の藩士の家に生まれた。病弱であったことから医学の道を志した。17歳の時、蘭医・杉田玄白(若狭生まれ)の流れをくむ大坂の蘭学者・中天游(なかてんゆう、丹後生まれ)の私塾・思々斎塾の門人となった。さらに江戸に出て、同じく蘭学者坪井信道(つぼいしんどう、美濃生まれ)の塾で学び、大坂に戻った天保9年(1838)3月、市中の瓦町(現大阪市中央区瓦町)で適塾を開いた。この年7月、中天游の門人、摂津国名塩(現西宮市名塩)の医師・億川百記の娘・八重と結婚した。洪庵29歳、八重17歳。7年後の弘化2年(1845)、適塾は手狭になったことから過書町(現大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入して移転した。
この建物の2階が塾生たちの学習部屋に当てられた。塾には全国各地から集った俊才たちが常時50人はいて切磋琢磨しあった。青年たちは蘭学者や蘭方医を目指したのである。一人に畳一枚が割り当てられた。毎月場所替えがあり、輪講で成績がいい塾生から順に好きな場所が与えられた。塾生は必死になって勉学に励まざるを得なかった。
彼が門下生たちに常日頃から肝に銘じさせた「医師の心得」がある。「扶氏(ふし、ドイツ人学者フーフェランド・ベルリン大学教授)医戒之略」である。ドイツの偉大な医学者の精神を翻案した「心得」に、医師洪庵の抜きんでた倫理観が凝縮されている。原文のまま一部を引用しよう。カッコ内は引用者のコメントである。
(1)医の世に生活するは人のためのみ、をのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救はんことを希(ねが)ふしべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。(医師は自己を捨てて人を救うべし)。
(2)病者に対しては唯病者を見るべし、貴賎貧富を顧みることなかれ。長者一握の黄金を以て貧士双眼の感涙に比するに、其心に得るところ如何ぞや。深く之を思うべし。(患者の貧富で診療を変えてはいけない)。
(3)学術を研精するの外、尚言行に意を用ひて病者に信任せられんことを求むべし。然りといえども、時様の服飾を用ひ、詭誕(きたん、でたらめ)の奇説を唱へて聞達を求むるは、大に恥るところなり(いくら学問があっても患者に信用されなければダメだ)。
(4)毎日夜間に方(あたり)て更に昼間の病按を再考し、詳(つまびらか)に筆記するを課定とすべし。積りて一書を成せば、自己の為にも病者のためにも拡大の裨益(ひえき)あり(患者の診察記録に手抜かりは許されない)。
(5)不治の病者も仍(なお)其の患苦を寛解し、其の生命を保全せんことを求るは医の職務なり。棄てて省みざるは人道に反す。たとひ救ふこと能(あた)はざるも、之を慰するは仁術なり。片時も其の命を延んことを思ふべし。決して其の不起を告ぐべからず。言語容姿みな意を用ひて之を悟らしむことなかれ(不治の病の患者でも献身的治療を施せ)。
(6)病者の費用少なからんことを思ふべし。命を与ふとも其の命を繋ぐの資を奪はば亦何の益かあらん。貧民に於ては茲(ここ)に斟酌(しんしゃく)なくんばあらず(貧しい患者の診察費負担を考えよ)。
(7)衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも、言行厳格なりとも、斉民(せいみん、庶民)の信を得ざれば、其の徳を施すによしなし。周(あまね)く俗情に通ぜざるべからず。殊に医は人の身命を依託し、赤裸を露呈し、最密の禁秘をも申し、最辱(さいじょく)の懺悔(ざんげ)をも状せざること能はざる所なり。常に篤実温厚を旨として多言ならず、沈黙ならんことを主とすべし(俗世間を避けてはならない。患者のプライバシーを守れ)。
(8)同業の人に対しては之を敬し、之を愛すべし。たとひしかること能はざるも、勉めて忍ばんことを要すべし。決して他医を議することなかれ。人の短をいふは聖賢の堅く戒むる所なり。彼が過(あやまち)を挙ぐるは小人の凶徳なり(同業医師の短所をみだりに論評するような小人にはなるな)。
(以下略)
全文を引用出来ないのが残念だが、洪庵の「医師倫理」は人命尊重の職業倫理に満ちており、古代ギリシャの「医学の父」ヒポクラテスの誓いに通じるものがある。今日の医学界はもとより、学界・教育界や経済産業界に求められている基本姿勢(職業倫理)と類似するものもあろう。
安心、それが最大の敵だの他の記事
おすすめ記事
リスク対策.com編集長が斬る!今週のニュース解説
毎週火曜日(平日のみ)朝9時~、リスク対策.com編集長 中澤幸介と兵庫県立大学教授 木村玲欧氏(心理学・危機管理学)が今週注目のニュースを短く、わかりやすく解説します。
2025/04/01
全社員が「リスクオーナー」リーダーに実践教育
エイブルホールディングス(東京都港区、平田竜史代表取締役社長)は、組織的なリスクマネジメント文化を育むために、土台となる組織風土の構築を進める。全役職員をリスクオーナーに位置づけてリスクマネジメントの自覚を高め、多彩な研修で役職に合致したレベルアップを目指す。
2025/03/18
ソリューションを提示しても経営には響かない
企業を取り巻くデジタルリスクはますます多様化。サイバー攻撃や内部からの情報漏えいのような従来型リスクが進展の様相を見せる一方で、生成 AI のような最新テクノロジーの登場や、国際政治の再編による世界的なパワーバランスの変動への対応が求められている。2025 年のデジタルリスク管理における重要ポイントはどこか。ガートナージャパンでセキュリティーとプライバシー領域の調査、分析を担当する礒田優一氏に聞いた。
2025/03/17
なぜ下請法の勧告が急増しているのか?公取委が注視する金型の無料保管と下請代金の減額
2024年度は下請法の勧告件数が17件と、直近10年で最多を昨年に続き更新している。急増しているのが金型の保管に関する勧告だ。大手ポンプメーカーの荏原製作所、自動車メーカーのトヨタや日産の子会社などへの勧告が相次いだ。また、家電量販店のビックカメラは支払代金の不当な減額で、出版ではKADOKAWAが買いたたきで勧告を受けた。なぜ、下請法による勧告が増えているのか。独占禁止法と下請法に詳しい日比谷総合法律事務所の多田敏明弁護士に聞いた。
2025/03/14
※スパム投稿防止のためコメントは編集部の承認制となっておりますが、いただいたコメントは原則、すべて掲載いたします。
※個人情報は入力しないようご注意ください。
» パスワードをお忘れの方