真岡市にある二宮尊徳ゆかりの桜町陣屋跡(国指定史跡、提供:高崎氏)

二宮尊徳、報徳思想と実践

私は<土の思想家・実践家>尊徳の70年間の人生と経験主義的思想に強く打たれるものがあり、「尊徳全集」や関連図書・論文などを読破し続け、同時にゆかりの地を訪ね歩いた。「尊徳の本がないのではない。ありすぎる位なのだが、その道に入らないと、読む気になれない本が多い」。作家・武者小路実篤は著書「二宮尊徳」の中で指摘する。確かに江戸後期の農政家・二宮尊徳(金次郎、1787 ~1856)を論じた図書や論文は、海外のものまで含めて枚挙にいとまがない。

「報徳思想」の祖として偶像化され過ぎた感も否定できない。彼が開墾した穂波の揺れる水田を訪ねて最初に思うことがある。それは尊徳が稀(まれ)に見る大男、巨漢の農民だった、ということだ。彼は身長6尺余り(ほぼ1m90cm)、体重25貫(約90kg)もあった。この巨体から発散する強烈なエネルギーを思わずに、尊徳の群を抜く勤倹力行の精神や農村復興・農民救済の仕法は理解できないと思う。

彼は相模国栢山(かやま、現・神奈川県小田原市栢山)の酒匂川右岸に住む地主の長男に生まれた。早く両親を失った。伯父の家で苦労に耐えながら学問に励んだ。血のにじむような勤勉ぶりが実って家を再興させ、その後、小田原藩重臣・服部家の再建や同藩領である下野国桜町領(現・栃木県真岡市二宮)の荒廃地復興に成功した。一連の復興経験をもとに「報徳仕法」と呼ばれる独自の農村改良事業をもって、小田原藩はもとより烏山・下館・相馬の各藩の疲弊した600余りの村を再建した。幕府の官吏に取り立てられて、印旛沼運河開削工事の目論見を命じられ、後に日光神領の立て直しに取りかかり奔走中に没した。彼の思想と業績は明治以降も報徳社が継承した。

尊徳は世にいう知識人ではない。どんなに優れたことを主張しても、神・儒・仏の教えが、結局において衣食住という現実を根本にしていることを見出した彼は、神・儒・仏の教えを経ず、直接衣食住問題と対峙しようとした。目の前には疲弊した農民が何十万人といる。天災や飢饉に襲われれば至る所に死体が転がる。それを救わなくて何の教えであるかと言うのか。そうして導かれたのが勤・倹・譲の思想であった。

彼はいかなる開墾や復興でも事前に精密な計画を立てた。独自の計画を「仕法」と呼んだ。この仕法の発想が彼を成功に導いた秘訣のひとつだった。それ以上に重要なのが「分度」である。勤・倹は個人の生活だが、譲に至って初めて社会が出て来る。譲があって道徳が出て来る。個人の生家を保つためには、一定の枠がなければならない。その枠が「分度」である。

彼は復興事業に携わる際には「分度」を定める。それは経済の枠である。その経済の枠内で農村の立て直しや農民の生活の再建を図った。手掛けた再建計画は成功した。尊徳は、人間の社会的・経済的なあり方を勤・倹・譲と分度で律した。

「我が道は至誠にあり」との彼の言葉は、それを貫く精神であった。幕末から明治にかけて活躍した旧幕臣・勝海舟は言う。「二宮尊徳には一度会ったが、いたって正直な人だったよ。だいたいあんな時勢には、あんな人物がたくさんでるものだ。時勢が人をつくる例は、おれは確かに見たよ」(「氷川清話」より)。辛辣な人物評で知られる海舟の珍しい讃辞である。